国別の海外出身者の人口[9]
出身国人口 (2022)
ルーマニア74,930
フィリピン38,484
バングラデシュ32,963
中国17,244
ウクライナ13,533
ペルー11,344
インド10,653
エジプト10,359
ポーランド8,771
スリランカ8,719
アルバニア6,858
モルドバ6,739
エクアドル5,884
ナイジェリア4,819
モロッコ4,797
スペイン4,154
ブラジル3,493
フランス3,434
パキスタン2,554
セネガル2,409
イギリス2,324
コロンビア2,233
チュニジア2,156
ボスニア・ヘルツェゴビナ2,125
イラン2,105
ロシア2,050
現在ローマの人口はおよそ280万人で、イタリア最大の都市であり、ベルリンとマドリードに続く欧州連合で第3の都市。ローマには7万を超える大きななルーマニア人コミュニティがあり、ルーマニア外で一番最大のルーマニア人になる。その他にもアジア系(おもにフィリピン人、バングラデシュ人、中国人)が多い。ローマの人口は1907年に50万を超え、1934年に100万、1957年に200万を超えた。
歴史主要記事:Storia di Roma(伊語) History of Rome
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスとレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる[10]。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された[10]。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる[11]。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた[11]。 紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された[12]。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[12]。 王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[13]。 共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる[14]。紀元前312年からはローマ街道の敷設が[15]、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった[16]。 ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[17]。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[18]。 そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され[19]、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[20]。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[20]。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。 286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノやラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケルや東ゴート王の支配下に入った。
発展
ローマ帝国フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。