この現状を打開するために紀元前2世紀になると平民出身で叩き上げの軍人であるガイウス・マリウスが軍制改革に着手した。マリウスはインペリウムを持つ司令官(執政官、法務官など)が指揮できる軍団の数の制限を撤廃、また従来の徴兵制を廃し志願制とした。従来は兵役義務の無かった無産階級が給与を目当てに多数志願する事になり、自作農は兵役から解放され農業に専念でき、双方を救済することができた。なお、軍務はローマにおける政界での出世コースの第一歩でもある事から、軍制改革以前から貴族階級や騎士階級の志願兵自体は下士官クラス以上には多く見受けられ、これは改革以降も同様である。一方で共和政期の百人隊長の墓碑の中にも、無産市民を暗示する描写がされているものも見受けられる。
元老院は、軍団が持つ強大な軍事力、政治力は十分に認識していたため、イタリア本土に留まること、またルビコン川を越えてイタリアに進入することを完全に禁止する法律が制定されるほどであった。しかし軍制改革により、軍事的な才能には恵まれてはいるものの政治的能力に長けているとはいえなかったマリウスが、投票権を持つ市民でもある兵士から圧倒的支持を受け政治的に台頭するようになり、この軍団の私兵化はより政治的技能のある人物へと受け継がれていく。そして後のスッラ、ポンペイウス、カエサルのように配下の軍団を従えた有力者たちの権力闘争、そしてカエサル暗殺後のオクタウィアヌスとアントニウスの内乱へと発展していった。 「アウグストゥス」として実質上の皇帝となったオクタウィアヌスは、すべての軍団を属州配備とした。そしてイタリア半島内に駐屯できる軍団として親衛隊を創設、自らの直属とした。この時代の1個の軍団の定員は5000人程度で、これにアウクシリアと呼ばれる非ローマ市民からなる補助兵力が加えられた。そして時代が下るにつれて定員は増員され、最大で1万5千人の軍団も出現するようになった。 軍団の持つ潜在的な政治力はその後のローマの歴史において、属州に配備された軍隊は政治的に重要な役割も演じることも可能にした。すなわち彼らの行動如何によっては、野心ある者を帝位に就かせることも排除することも可能であり、それぞれの軍団が支持する者同士が争うこともあった。例えば、69年「四皇帝の年」、ウィテリウスは属州上ゲルマニア、下ゲルマニアの軍団の支持を得て皇帝となったが、度重なる失政で支持を失い、アフリカ属州、属州アエギュプトゥス(エジプト)、そしてウィテリウスを憎悪するダヌーブ(ドナウ川)流域に配備されていた軍団の支持を受けたウェスパシアヌスに敗れている。同様の事態が「五皇帝の年」にも現れた。 ディオクレティアヌスの軍制改革以降、ローマ軍は大幅に変革される。まず歩兵単位が1000人程度と規模が縮小され、文武の官職の分離が進められた。また帝国内を脅かす蛮族に対抗するため騎兵や、コミタテンセス
帝政初期
帝政後期
コンスタンティヌス1世の軍制改革ではプラエトリアニを解散させコミタテンセスに編成した。これによりプラエフェクトゥス・プラエトリオは軍事的機能を失い、文武官職の分離は完成した。
この時代の軍団の主要任務は、外部からの侵入から防衛・内乱の鎮圧(または参加)といったものが多く、上記のコミタテンセス以外にリミネタイ(辺境部隊)と呼ばれる部隊が国境警備などにあたっていた。リミネタイについては所説あるが、一般的に言われる『正規軍が来るまで時間稼ぎを行う軽装兵』ではなく、地域に縛られずに展開するコミタテンセスと異なる固定配置の正規軍という位置づけであり、砦に駐屯しての警備以外にも野戦軍に合流して大規模戦闘を行うことも多かった。逆にコミタテンセスは特定の駐屯地を持たず、駐留している都市の宿に停泊することが多く、騒乱への出動以外にリミネタイで対応しきれない脅威が出現した場合は各地の部隊が急行することで大規模な野戦軍を編成して迎撃することもあった。騎兵が主体ではないので行軍速度に劇的な変化はないが、元首制においては特定の国境や地域に軍団単位で固定配置、大規模侵攻などの非常時には分遣隊を臨時編成または別の国境から軍団そのものが移動していたのに対し、野戦機動軍のみが移動すれば済むので管理や国境警備に負荷をかけることが少なくなっている。 西ローマ皇帝がオドアケルによって廃位させられた後も「レギオー」の名前は東ローマ帝国で残った。しかし兵力の中心は騎兵であった。 7世紀以降相次いだイスラーム勢力やブルガリア帝国などの戦いで、東ローマの軍制は大きく変化し、古代のローマ軍団とは全く異なるものになった。中期には、地方はテマ制(軍管区制)の導入によって武装した自作農であるテマ兵[注釈 1]、首都コンスタンティノポリスには皇帝直属の4つの軍団(スコライ、エクスクービテース、アリュトモス、ヒカナトス[2])から構成される中央軍(タグマ)と皇帝親衛隊が置かれるという体制に変わった。最盛期のバシレイオス2世時代には47のテマが置かれていた。 10世紀後半から11世紀前半、東ローマ帝国は多くの遠征を行って国土を回復するが、遠征の負担に耐えられなくなった自作農民が没落し、テマ兵の担い手がいなくなってしまったコムネノス朝の時期に軍制はまた変化し、軍事力は、傭兵や私兵を抱える軍事貴族が担うことになる。最終的に歩兵は傭兵が占めるようになり、1453年のコンスタンティノポリス陥落時には、ジェノヴァの傭兵隊が防衛の要になっていた。 ローマ軍は将官たる司令官と兵隊たる軍団兵の2つの異なる組織で構成されていた。共和制期を通じて将官は民会の選挙によって選ばれた公職を務める者であり、ほとんどの場合、元老院議員であった。一方で百人隊長は部隊内の選挙で選ばれた。そのため、上級将校はもとより、百人隊長、特に第一歩兵隊に選ばれることは最大の名誉とされていた。 しかしながら古代ローマについての文献が、当のローマが滅んで長く、書籍の断片や遺跡の出土品などが多いため、その解釈もまた多くなってしまい、ほぼ当時のまま再現することは難しいといわざるを得ない状況である。 レギオーはレガトゥス・レギオニスと呼ばれる軍団長によって指揮され、直属の部下には6人のトリブヌス・ミリトゥム(副官)が選任された。ほかにも、救護や工兵、技師、野営隊長、聖職者や軍楽隊などにおける将校の一団も存在した。
東ローマ帝国
組織百人隊長「ケントゥリオン」(コスプレ)ローマ軍団ローマ軍団(3世紀末)コスプレ
士官
上級
ドゥクス(dux)
主に属州総督や執政官、またはインペリウム所有者を指す。通常、2個以上の軍団の指揮権を有する。帝政後期には左記とは異なる公職として新設された。
レガトゥス・レギオニス
レギオーの指揮官。「軍団長」。単に「レガトゥス」と呼ばれることもある。主に元老院議員を3年以上勤めた30歳前後の人物で占められる。この官職は元老院か皇帝の任命によって決められた。任期は3、4年からさらに長期間に及んだ。通常は属州統治は行政面で属州総督、安全保障面でレガトゥスと業務を分けるが、場合によってはレガトゥスが軍事・行政両面に携わることもあった。
トリブヌス・ミリトゥム
レガトゥスを補佐する幕僚。1個軍団に6名配置された。その内5人は参謀将校の任務に就き、残る1人は元老院からのお目付け役であった。軍団の運営を統括し、大隊長級の指揮権を持っていたと思われる。
トリブヌス・ラティクラウィウス(tribunus laticlavius)
最高位のトリブヌス。主に元老院議員出身者が勤めた。若く経験に乏しい者が就任するので、実際の戦闘の指揮を執ることは稀ではあるが、レガトゥスが死亡するなどの非常時に指揮官としての役割を果たした。またこの職は社会的な栄達を求める駆け出しの元老院議員たちの登竜門でもあった。現在の士官候補生に近い存在。
トリブヌス・アングスティクラウィウス
各レギオーに5人存在する。指揮官と軍団兵の中間管理を行う公職。主にエクィテス階級の者が務めた。また2つのコホルスを率いる連隊長としてレギオーからの一部兵力を分遣する際の業務も担った。
プラエフェクトゥス・カストロルム
野営業務に携わる上級士官。「陣営隊長」。引退せず軍に残ったプリムス・ピルス(後述)のために用意された。レギオー内での階級では前述の「トリブヌス・ラティクラウィウス」、「トリブヌス・アングスティクラウィウス」より低いものの、戦闘時には事実上レギオーの副指揮官としての役割を担った。通常、ノンキャリアの軍団兵が成り得る最高位の階級。
プリムス・ピルス(primus pilus)
「筆頭百人隊長」ともいうべき存在。名誉とされる第1コホルス(大隊)を指揮する。数ある百人隊長の中でも最も高位な役職。この階級の者が退役する際にはエクィテス(騎士階級)となり、上流階級の一員として迎え入れられた。
中級