ローマ皇帝
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このように、プレマーシュタインの研究の成果は、「その後受け入れられて定説化したが、アウグストゥスが共和政の有力者たちのクリエンテーラを奪って保護?庇護関係を自己のもとに統一し、すべての市民と兵士のパトロンとして君臨したとする彼の見解が支配的になったために、皇帝権力とクリエンレーラ関係をめぐる議論は、アウグストゥスをもって収束してしまった」[56]、日本でも同様にアウグストゥスの権力解明に研究が注がれたため、帝政期の研究者である南川高志は「アウグストクス以後の諸皇帝の治世における実際の皇帝政治を分析してその本質を捉えようという視点が欠落して」しまった、と述べている[57][注 19]

このように、帝政期の皇帝権については欧米に限らず日本でもまだ研究途上にある。後期帝政について長らくモムゼンの確立した専制君主政が定説となっていたが、現在では専制君主政という言い方は完全に廃れてしまった、とされる[58][注 20]。このような状況であるため、帝政期の皇帝権の変化については断定的なことはあまり指摘できない段階であるが、そのような中でもいくつか指摘できることがあり、例えば「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」は、最高指揮権(インペリウム)の所有者(インペラトル)は、従来の法律、平民会決議、元老院決議に拘束されないことが明記されている点で重要である[注 21]。セウェルス朝に活躍した法律家のウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)しており[59]、元首政の時代が下るに従い皇帝の立法権が強化され、その発言が勅令(edictum)や勅答(rescriptum)として法律として運用されるように強化されていった点は指摘できる。

一方で皇帝の専制化がすすむにつれて、「元首政時代の初期に比べて、その後半になると、皇帝の権威を高める儀礼や宗教的行為が増え」[60]、3世紀中頃の軍人皇帝の時代となると、「軍隊というむき出しの暴力に支えられた皇帝には、支配を正当化するために権威が必要とな」り、「権威の確立のために儀礼を導入した、と見ることができる」[61]。その結果「多くの儀礼を伴う「神聖な」皇帝が生まれていった」とされるが、3世紀については「政治・軍事・そしてイデオロギーや宗教など、それぞれの領域で有意義な説明が試みられているものの、社会の変化をも見据えた総合的な説明が達成されているようには見えない」段階とされる[62]

皇帝立法など皇帝業務の増加に伴い、皇帝直属の業務を行うスタッフも増加し、元首政初期には元首の友人たちから構成されていた諮問機関であり上級法廷であった[63]皇帝顧問会は、ディオクレティアヌス時代には官庁の長が出席し、政治・立法・行政・司法の諸活動の中心となった[64]。同帝の時代には皇帝官房には請願部・通信部・調査部・訴訟部・文書部の部局が置かれ、実質的な官庁を構成し、皇帝金庫の財務管理官は実質財務大臣化し[65]、属州細分化や征服により新設された属州では皇帝直轄のスタッフ(騎士階層から登用された)が派遣され、同帝により創設された属州を管轄する管区の管区長官(ウィカリウス(英語版))は皇帝直属となった[66]。すなわち、元首政初期では、皇帝管轄属州と元老院管轄属州が半々であったのに対し、属州アフリカと属州アジア以外の元老院管轄属州は、ディオクレティアヌス時代には皇帝の管轄下に入ったものと思われ[66]、「元老院はローマ市の都市参事会と化していた」[67]

以上のように、帝政期の皇帝権は、元老院管轄職の担当範囲を次第に皇帝管轄担当に置き換え、皇帝が行う立法の範囲を次第に拡張し、皇帝の担当範囲は帝国のほとんどとなる一方、伝統的なローマの公職や元老院の担当範囲はローマ市と一部の属州職に限定されてゆく方向に変化していったのである。
歴代ローマ皇帝詳細は「ローマ皇帝一覧」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ユリウス・カエサルを最初のローマ皇帝とする数え方も存在する。例として『ユダヤ古代誌』第XVIII巻2章2節では「カイサル(アウグストゥス)が第2代・ティベリオス・ネロン(ティベリウス)が第3代」、同書6章10節では「ガイオス(カリグラ)が第4代」とするほか、第XIX巻2章3節ではカリグラ暗殺後の元老院の集会の下りで「民衆支配という統治形態が奪われて100年」とユリウス・カエサルの執政官就任からカウントしている前提の記述がある[1]
^ 国原吉之助は、principes Romaniやprincipem Romanumには「ローマの元首」の訳語を、imperatorem Romanum には「ローマの最高司令官」の訳語を当てている(#タキトゥス1981)が、19世紀のAlfred John Church(英語版)とWilliam Jackson Brodribbによる英訳では、上記いずれも「 the Roman emperor」の訳語を当てている
^ ただし、あくまでインペラトルは単なる個人名に過ぎず、インペラトルを名乗ったからといって命令権保持者(インペラトル)になれるわけではなかった。
^ このときオクタウィアヌスに統治が委ねられた属州のことを、歴史学の用語では皇帝属州と呼ぶ。皇帝属州ではない残りの属州は元老院属州と呼ばれる。
^ 護民官に就くことなく護民官と同等の権利を行使できるようになる特典の付与。
^ 例えば、120年頃に書かれたとされるスエトニウスの『ローマ皇帝伝』も、原題は『カエサルたちの伝記(De vita Caesarum)』である。
^ Αυτοκρ?τορα? (アウトクラトールはインペラトルの古代におけるギリシア語訳、Σεβαστ??(セバストス)は、カエサルの古代におけるギリシア語訳。アウグストゥス個人を指す場合はΑυγο?στουとギシリア文字で表記した)
^ タキトゥス作品の翻訳者国原吉之助は、プリンケプスを「元首」と訳し、インペラトルを「最高司令官」と訳している
^ 古代の文学作品の一部で「ローマのimperator」「ローマのprinceps」という用語が用いられている。例えばタキトゥスでは、「principes Romani」(12巻48章)「principem Romanum 」(14巻25章)、「imperatorem Romanum」(15巻5章)が登場していて、19世紀のAlfred John Church(英語版)とWilliam Jackson Brodribbの英訳ではいずれも「the Roman emperor」と訳しているが、国原吉之助は、「ローマの元首」「ローマの最高司令官」の訳語を当てている。しかしながらタキトゥスに限らず古代の文学作品では、「Roman/Romanum(ローマの/ローマ人の)」をprincipesやimperatorに冠する用例はほとんどなく、各作品の中で皇帝を示す用語はほとんどprincipesあるいはimperatorが単体で用いられている。これはタキトゥスに限らず3世紀初頭のカッシウス・ディオや4世紀末の『ローマ皇帝群像』、アンミアヌス・マルケリヌスの『ローマ帝政の歴史』、更に時代が下って6世紀のプロコピオス『秘史』でも同様である。タキトゥス『年代記』で「ローマの」がprinceps/imperatorに冠された回数は6回、『同時代史』では2回、カッシウス・ディオでは2か所、『ローマ帝政の歴史』では4回(2020年2月現在日本語訳は三冊中の第一分冊しか出ていないが、第一分冊では3か所Romani Principis(及びその格変化形)が登場しており、訳者山沢考至はすべて「元首」の訳語を当てている(最後の一か所はimperator Romanusで29巻1-4(日本語訳では第三分冊収録予定)に登場している)『秘史』では5回登場している。このように、「ローマ皇帝」という用例は、古代において存在していたものの、文学作品に限られておりかつ非常に稀である
^ 編纂史料においてもこの同じ時期から「ローマ皇帝」の用語が登場する。814年頃完成したと考えられているテオファネス作『テオファネス年代記』は、ディオクレティアヌスの治世284年から書き起こしているが、年代表記時の各皇帝の治世年を記載する箇所ではディオクレティアヌス以降全皇帝の名前の前に「?ωμα?ων βασιλε??(ローマ人の皇帝/ローマ皇帝)」が冠されている
^ 西洋古代史家田中創は、「アウグストゥスのゆくえ―ローマ帝国統治の模索」#佐川2023で次のように述べている「八一二年頃から"ローマ人たちの王(バシレウス)"というギリシア語銘の入った貨幣がコンスタンティノポリスのローマ皇帝によって発行されるようになったことが指摘されている。この変化は、西に新しい帝権が登場したという政治的現実を前にして、支配理念を新たに表現する必要から生じたものと推測されるのである。単なる"王"ではなく、"ローマ人たちの"王であると敢えて説明的に喧伝しなければならなかったことは、ローマ世界の普遍性が自明のものではなくなった時代の変化を象徴的に示している」(p160)とし、更に註47において「"ローマ人たちの王"という表現自体は既に七世紀頃から広く用いられていた。本稿では貨幣が外交上重要なプロパガンダ媒体であったこと、形式面で保守的な媒体である貨幣上でもこの時期に変化が起きたということを重視している」(p165)と述べている
^ 最初にポンティフェクス・マクシムスに就いたローマ司教としてはレオ1世の他にダマスス1世シリキウスとする説もある[44]
^ より正確には、紀元前23年より、1年限りの護民官職権が毎年付与された[20]
^ タキトゥスは軍事力によって皇帝が定まるのが「帝権の秘密(imperii arcano)」(『同時代史』1巻4章2節)だと記載しており、この点は現代の学者も受け入れている。南川高志は「イタリアの外で皇帝に擁立された者は、首都で元老院の承認を得、民衆の歓呼を受けることを目指したけれども、それをしなければ皇帝ではないという観念があったとは思われず」と記載している(#笠谷2005所収「ローマ皇帝権力の本質と変容」p216
^ 島田誠は、オクタウィアヌスの後継者選定では皇帝家(ドムス・アウグスティー)集団が大きな影響を持ったと論じている(島田誠「ティベリウス政権の成立とその性格」2001年)


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