ローマ皇帝
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縁戚でない者が皇帝候補となる場合には皇帝家と縁組することが求められた[注 15]。ウェスパシアヌスは皇帝家と縁戚を持たないまま軍事力によって、実態はばらばらの職務の集積である皇帝権を獲得したため、彼の職権を明確にするための法律を定めた[52]。この法律でウェスパシアヌスは「インペラトル」と自称し、その職務と職権が定義されたと見なされている。しかしそれでも継承候補者は皇帝権を構成する執政官やプロコンスル命令権、護民官職権を別々に与えられる状態は続き[注 16]、元首政時代は、これら職務の未経験者が皇帝に就任した場合[注 17]でも、即位時に「プロコンスル命令権、護民官権、元老院への提案権の授与」がなされる慣行が続いた。ディオクレティアヌス帝の四分統治以降は、現役の皇帝が在位中に後継者を共治帝として分割統治・あるいは共同統治する形態がとられるようになり、皇帝家と関係がない者が候補者となる場合は皇帝家との縁組がなされた[注 18]
アウグストゥス以後の皇帝権の変化

本項ローマ皇帝#「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程で詳述されているオクタウィアヌスの皇帝権は、19世紀のテオドール・モムゼン以来の法律に基づく権限掌握研究であり、当時の主要歴史学方法論であった法制史的分析に基づいている。モムゼンの時代は『神君アウグストゥスの業績録』の完全な同時代文書が発見されておらず、伝世文献史料では「余は……万人に勝ったが、職権においては他の何人にもいささかも勝らなかった」と欠損部分があり、モムゼンは欠損部分をギリシア語碑文を参考に「公職の位においては」と補って解釈した[53]。しかしモムゼン死後発見され、1927年に校訂版が出たアンティオキア碑文により、欠損部分は「権威においては」であることが明らかにされ、皇帝権の権力の重要な源泉が古代ローマ人固有の概念であり共同体の秩序を支える指導的な人物の持つ特性である「権威」にあることが判明したため[54]、皇帝権についてもクリエンテラ―パトロキニウム(庇護関係)論を軸とした社会史的分析が行われることになり、1937年のプレマーシュタインの論文[55]、および1939年のサイムの『ローマ革命』で帝国最大の保護者としてのオクタウィアヌスの皇帝権確立という見解が確立した[54]。このように、プレマーシュタインの研究の成果は、「その後受け入れられて定説化したが、アウグストゥスが共和政の有力者たちのクリエンテーラを奪って保護?庇護関係を自己のもとに統一し、すべての市民と兵士のパトロンとして君臨したとする彼の見解が支配的になったために、皇帝権力とクリエンレーラ関係をめぐる議論は、アウグストゥスをもって収束してしまった」[56]、日本でも同様にアウグストゥスの権力解明に研究が注がれたため、帝政期の研究者である南川高志は「アウグストクス以後の諸皇帝の治世における実際の皇帝政治を分析してその本質を捉えようという視点が欠落して」しまった、と述べている[57][注 19]

このように、帝政期の皇帝権については欧米に限らず日本でもまだ研究途上にある。後期帝政について長らくモムゼンの確立した専制君主政が定説となっていたが、現在では専制君主政という言い方は完全に廃れてしまった、とされる[58][注 20]。このような状況であるため、帝政期の皇帝権の変化については断定的なことはあまり指摘できない段階であるが、そのような中でもいくつか指摘できることがあり、例えば「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」は、最高指揮権(インペリウム)の所有者(インペラトル)は、従来の法律、平民会決議、元老院決議に拘束されないことが明記されている点で重要である[注 21]。セウェルス朝に活躍した法律家のウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)しており[59]、元首政の時代が下るに従い皇帝の立法権が強化され、その発言が勅令(edictum)や勅答(rescriptum)として法律として運用されるように強化されていった点は指摘できる。

一方で皇帝の専制化がすすむにつれて、「元首政時代の初期に比べて、その後半になると、皇帝の権威を高める儀礼や宗教的行為が増え」[60]、3世紀中頃の軍人皇帝の時代となると、「軍隊というむき出しの暴力に支えられた皇帝には、支配を正当化するために権威が必要とな」り、「権威の確立のために儀礼を導入した、と見ることができる」[61]。その結果「多くの儀礼を伴う「神聖な」皇帝が生まれていった」とされるが、3世紀については「政治・軍事・そしてイデオロギーや宗教など、それぞれの領域で有意義な説明が試みられているものの、社会の変化をも見据えた総合的な説明が達成されているようには見えない」段階とされる[62]

皇帝立法など皇帝業務の増加に伴い、皇帝直属の業務を行うスタッフも増加し、元首政初期には元首の友人たちから構成されていた諮問機関であり上級法廷であった[63]皇帝顧問会は、ディオクレティアヌス時代には官庁の長が出席し、政治・立法・行政・司法の諸活動の中心となった[64]。同帝の時代には皇帝官房には請願部・通信部・調査部・訴訟部・文書部の部局が置かれ、実質的な官庁を構成し、皇帝金庫の財務管理官は実質財務大臣化し[65]、属州細分化や征服により新設された属州では皇帝直轄のスタッフ(騎士階層から登用された)が派遣され、同帝により創設された属州を管轄する管区の管区長官(ウィカリウス(英語版))は皇帝直属となった[66]。すなわち、元首政初期では、皇帝管轄属州と元老院管轄属州が半々であったのに対し、属州アフリカと属州アジア以外の元老院管轄属州は、ディオクレティアヌス時代には皇帝の管轄下に入ったものと思われ[66]、「元老院はローマ市の都市参事会と化していた」[67]

以上のように、帝政期の皇帝権は、元老院管轄職の担当範囲を次第に皇帝管轄担当に置き換え、皇帝が行う立法の範囲を次第に拡張し、皇帝の担当範囲は帝国のほとんどとなる一方、伝統的なローマの公職や元老院の担当範囲はローマ市と一部の属州職に限定されてゆく方向に変化していったのである。
歴代ローマ皇帝詳細は「ローマ皇帝一覧」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ユリウス・カエサルを最初のローマ皇帝とする数え方も存在する。例として『ユダヤ古代誌』第XVIII巻2章2節では「カイサル(アウグストゥス)が第2代・ティベリオス・ネロン(ティベリウス)が第3代」、同書6章10節では「ガイオス(カリグラ)が第4代」とするほか、第XIX巻2章3節ではカリグラ暗殺後の元老院の集会の下りで「民衆支配という統治形態が奪われて100年」とユリウス・カエサルの執政官就任からカウントしている前提の記述がある[1]
^ 国原吉之助は、principes Romaniやprincipem Romanumには「ローマの元首」の訳語を、imperatorem Romanum には「ローマの最高司令官」の訳語を当てている(#タキトゥス1981)が、19世紀のAlfred John Church(英語版)とWilliam Jackson Brodribbによる英訳では、上記いずれも「 the Roman emperor」の訳語を当てている
^ ただし、あくまでインペラトルは単なる個人名に過ぎず、インペラトルを名乗ったからといって命令権保持者(インペラトル)になれるわけではなかった。
^ このときオクタウィアヌスに統治が委ねられた属州のことを、歴史学の用語では皇帝属州と呼ぶ。皇帝属州ではない残りの属州は元老院属州と呼ばれる。
^ 護民官に就くことなく護民官と同等の権利を行使できるようになる特典の付与。
^ 例えば、120年頃に書かれたとされるスエトニウスの『ローマ皇帝伝』も、原題は『カエサルたちの伝記(De vita Caesarum)』である。
^ Αυτοκρ?τορα? (アウトクラトールはインペラトルの古代におけるギリシア語訳、Σεβαστ??(セバストス)は、カエサルの古代におけるギリシア語訳。アウグストゥス個人を指す場合はΑυγο?στουとギシリア文字で表記した)
^ タキトゥス作品の翻訳者国原吉之助は、プリンケプスを「元首」と訳し、インペラトルを「最高司令官」と訳している
^ 古代の文学作品の一部で「ローマのimperator」「ローマのprinceps」という用語が用いられている。例えばタキトゥスでは、「principes Romani」(12巻48章)「principem Romanum 」(14巻25章)、「imperatorem Romanum」(15巻5章)が登場していて、19世紀のAlfred John Church(英語版)とWilliam Jackson Brodribbの英訳ではいずれも「the Roman emperor」と訳しているが、国原吉之助は、「ローマの元首」「ローマの最高司令官」の訳語を当てている。しかしながらタキトゥスに限らず古代の文学作品では、「Roman/Romanum(ローマの/ローマ人の)」をprincipesやimperatorに冠する用例はほとんどなく、各作品の中で皇帝を示す用語はほとんどprincipesあるいはimperatorが単体で用いられている。これはタキトゥスに限らず3世紀初頭のカッシウス・ディオや4世紀末の『ローマ皇帝群像』、アンミアヌス・マルケリヌスの『ローマ帝政の歴史』、更に時代が下って6世紀のプロコピオス『秘史』でも同様である。タキトゥス『年代記』で「ローマの」がprinceps/imperatorに冠された回数は6回、『同時代史』では2回、カッシウス・ディオでは2か所、『ローマ帝政の歴史』では4回(2020年2月現在日本語訳は三冊中の第一分冊しか出ていないが、第一分冊では3か所Romani Principis(及びその格変化形)が登場しており、訳者山沢考至はすべて「元首」の訳語を当てている(最後の一か所はimperator Romanusで29巻1-4(日本語訳では第三分冊収録予定)に登場している)『秘史』では5回登場している。


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