ローマ皇帝
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オクタウィアヌスは紀元前23年に護民官職権を獲得した[注 13]
皇帝裁判権
執政官職権、護民官職権、プロコンスル上級命令権と異なり明確に職権を委託する法的根拠があって成立したわけではないため、皇帝裁判権の成立時期についてはアウグストゥスからネロの頃までの間で幅があり、モムゼン以来の長い学問上の論争がある。元老院裁判や皇帝管轄属州代官の主催する陪審法廷等の上訴審として段階的に成立したものと考えられている[45]
ローマ皇帝を指して用いられた語
プリンケプス」の語
「第一人者」を意味するラテン語で、その道において最も権威があると思われる者を指して用いられた。共和政時代から用いられており、オクタウィアヌスも自身に対して使用していた[46]。英語のプリンス(Prince)やドイツ語のプリンツ(Prinz)の語源とされる。
ドミヌス」の語
「主人」を意味するラテン語で、主に3世紀末以降に、ディオクレティアヌスコンスタンティヌス1世らのような「強い皇帝権」を志向したローマ皇帝に対して呼びかける際に用いられた。この言葉の使用に対する感情には呼びかける側にも呼びかけられる側にも様々なものがあり、例えば1世紀のローマ皇帝ティベリウスは自身に対して「主人(ドミヌス)」と呼びかけた者に対して「私を主人と呼ばないでくれ」と返していたとされる[47]
「神聖なる(sacer, sacrum)」の語
3世紀以降に「皇帝の」の同義語として用いられた[48][49]。例えば「神聖なる宮殿」「神聖なる寝室」といえば「皇帝の宮殿」「皇帝の寝室」を意味した。4世紀以降には「教皇の」を意味する sacred と「皇帝の」を意味する sacrum とが対になる語として用いられた [要出典]。
「不敗の(Invictus)」の語
三世紀以降皇帝の称号に冠されるようになった[50]。これに類する用語として二世紀末以降の皇帝には「敬虔な」(神々や人々に対する責務を重んじること)「幸運な」(神々に護られていること)、「不敗の」(太陽(ソル)を含意し、元首の恒久的な軍事的勝利という基礎概念を主張するもの)という形容詞が称号付加された[51]
地位継承

オクタウィアヌスが獲得した職権は、既存の職権をそれぞれ別個に獲得したものであり、これらをひとまとめの職務として継承する法律や仕組みは考案されなかった。オクタウィアヌスは、後継者候補(アグリッパやティベリウス、ガイウス・カエサルなど)が執政官職や護民官職に就任したり、プロコンスル命令権を得て属州に派遣されるように計らったが、彼等が職位についたのは従来の公職者選定の仕組みを通じてである。皇位継承法の不在は後世まで引き継がれ、皇位継承時度々騒乱が起こる原因となった。しかし、軍事力による帝権獲得[注 14]以外では、誰でも候補になれたわけではなく、後継者候補は皇帝家と縁戚である者に限られた。縁戚でない者が皇帝候補となる場合には皇帝家と縁組することが求められた[注 15]。ウェスパシアヌスは皇帝家と縁戚を持たないまま軍事力によって、実態はばらばらの職務の集積である皇帝権を獲得したため、彼の職権を明確にするための法律を定めた[52]。この法律でウェスパシアヌスは「インペラトル」と自称し、その職務と職権が定義されたと見なされている。しかしそれでも継承候補者は皇帝権を構成する執政官やプロコンスル命令権、護民官職権を別々に与えられる状態は続き[注 16]、元首政時代は、これら職務の未経験者が皇帝に就任した場合[注 17]でも、即位時に「プロコンスル命令権、護民官権、元老院への提案権の授与」がなされる慣行が続いた。ディオクレティアヌス帝の四分統治以降は、現役の皇帝が在位中に後継者を共治帝として分割統治・あるいは共同統治する形態がとられるようになり、皇帝家と関係がない者が候補者となる場合は皇帝家との縁組がなされた[注 18]
アウグストゥス以後の皇帝権の変化

本項ローマ皇帝#「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程で詳述されているオクタウィアヌスの皇帝権は、19世紀のテオドール・モムゼン以来の法律に基づく権限掌握研究であり、当時の主要歴史学方法論であった法制史的分析に基づいている。モムゼンの時代は『神君アウグストゥスの業績録』の完全な同時代文書が発見されておらず、伝世文献史料では「余は……万人に勝ったが、職権においては他の何人にもいささかも勝らなかった」と欠損部分があり、モムゼンは欠損部分をギリシア語碑文を参考に「公職の位においては」と補って解釈した[53]。しかしモムゼン死後発見され、1927年に校訂版が出たアンティオキア碑文により、欠損部分は「権威においては」であることが明らかにされ、皇帝権の権力の重要な源泉が古代ローマ人固有の概念であり共同体の秩序を支える指導的な人物の持つ特性である「権威」にあることが判明したため[54]、皇帝権についてもクリエンテラ―パトロキニウム(庇護関係)論を軸とした社会史的分析が行われることになり、1937年のプレマーシュタインの論文[55]、および1939年のサイムの『ローマ革命』で帝国最大の保護者としてのオクタウィアヌスの皇帝権確立という見解が確立した[54]。このように、プレマーシュタインの研究の成果は、「その後受け入れられて定説化したが、アウグストゥスが共和政の有力者たちのクリエンテーラを奪って保護?庇護関係を自己のもとに統一し、すべての市民と兵士のパトロンとして君臨したとする彼の見解が支配的になったために、皇帝権力とクリエンレーラ関係をめぐる議論は、アウグストゥスをもって収束してしまった」[56]、日本でも同様にアウグストゥスの権力解明に研究が注がれたため、帝政期の研究者である南川高志は「アウグストクス以後の諸皇帝の治世における実際の皇帝政治を分析してその本質を捉えようという視点が欠落して」しまった、と述べている[57][注 19]

このように、帝政期の皇帝権については欧米に限らず日本でもまだ研究途上にある。後期帝政について長らくモムゼンの確立した専制君主政が定説となっていたが、現在では専制君主政という言い方は完全に廃れてしまった、とされる[58][注 20]。このような状況であるため、帝政期の皇帝権の変化については断定的なことはあまり指摘できない段階であるが、そのような中でもいくつか指摘できることがあり、例えば「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」は、最高指揮権(インペリウム)の所有者(インペラトル)は、従来の法律、平民会決議、元老院決議に拘束されないことが明記されている点で重要である[注 21]。セウェルス朝に活躍した法律家のウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)しており[59]、元首政の時代が下るに従い皇帝の立法権が強化され、その発言が勅令(edictum)や勅答(rescriptum)として法律として運用されるように強化されていった点は指摘できる。

一方で皇帝の専制化がすすむにつれて、「元首政時代の初期に比べて、その後半になると、皇帝の権威を高める儀礼や宗教的行為が増え」[60]、3世紀中頃の軍人皇帝の時代となると、「軍隊というむき出しの暴力に支えられた皇帝には、支配を正当化するために権威が必要とな」り、「権威の確立のために儀礼を導入した、と見ることができる」[61]。その結果「多くの儀礼を伴う「神聖な」皇帝が生まれていった」とされるが、3世紀については「政治・軍事・そしてイデオロギーや宗教など、それぞれの領域で有意義な説明が試みられているものの、社会の変化をも見据えた総合的な説明が達成されているようには見えない」段階とされる[62]

皇帝立法など皇帝業務の増加に伴い、皇帝直属の業務を行うスタッフも増加し、元首政初期には元首の友人たちから構成されていた諮問機関であり上級法廷であった[63]皇帝顧問会は、ディオクレティアヌス時代には官庁の長が出席し、政治・立法・行政・司法の諸活動の中心となった[64]。同帝の時代には皇帝官房には請願部・通信部・調査部・訴訟部・文書部の部局が置かれ、実質的な官庁を構成し、皇帝金庫の財務管理官は実質財務大臣化し[65]、属州細分化や征服により新設された属州では皇帝直轄のスタッフ(騎士階層から登用された)が派遣され、同帝により創設された属州を管轄する管区の管区長官(ウィカリウス(英語版))は皇帝直属となった[66]。すなわち、元首政初期では、皇帝管轄属州と元老院管轄属州が半々であったのに対し、属州アフリカと属州アジア以外の元老院管轄属州は、ディオクレティアヌス時代には皇帝の管轄下に入ったものと思われ[66]、「元老院はローマ市の都市参事会と化していた」[67]

以上のように、帝政期の皇帝権は、元老院管轄職の担当範囲を次第に皇帝管轄担当に置き換え、皇帝が行う立法の範囲を次第に拡張し、皇帝の担当範囲は帝国のほとんどとなる一方、伝統的なローマの公職や元老院の担当範囲はローマ市と一部の属州職に限定されてゆく方向に変化していったのである。
歴代ローマ皇帝詳細は「ローマ皇帝一覧」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ユリウス・カエサルを最初のローマ皇帝とする数え方も存在する。


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