ローマ皇帝
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^ ただし、あくまでインペラトルは単なる個人名に過ぎず、インペラトルを名乗ったからといって命令権保持者(インペラトル)になれるわけではなかった。
^ このときオクタウィアヌスに統治が委ねられた属州のことを、歴史学の用語では皇帝属州と呼ぶ。皇帝属州ではない残りの属州は元老院属州と呼ばれる。
^ 護民官に就くことなく護民官と同等の権利を行使できるようになる特典の付与。
^ 例えば、120年頃に書かれたとされるスエトニウスの『ローマ皇帝伝』も、原題は『カエサルたちの伝記(De vita Caesarum)』である。
^ Αυτοκρ?τορα? (アウトクラトールはインペラトルの古代におけるギリシア語訳、Σεβαστ??(セバストス)は、カエサルの古代におけるギシリア語訳。アウグストゥス個人を指す場合はΑυγο?στουとギシリア文字で表記した)
^ タキトゥス作品の翻訳者国原吉之助は、プリンケプスを「元首」と訳し、インペラトルを「最高司令官」と訳している
^ 古代の文学作品の一部で「ローマのimperator」「ローマのprinceps」という用語が用いられている。例えばタキトゥスでは、「principes Romani」(12巻48章)「principem Romanum 」(14巻25章)、「imperatorem Romanum」(15巻5章)が登場していて、19世紀のAlfred John Church(英語版)とWilliam Jackson Brodribbの英訳ではいずれも「the Roman emperor」と訳しているが、国原吉之助は、「ローマの元首」「ローマの最高司令官」の訳語を当てている。しかしながらタキトゥスに限らず古代の文学作品では、「Roman/Romanum(ローマの/ローマ人の)」をprincipesやimperatorに冠する用例はほとんどなく、各作品の中で皇帝を示す用語はほとんどprincipesあるいはimperatorが単体で用いられている。これはタキトゥスに限らず3世紀初頭のカッシウス・ディオや4世紀末の『ローマ皇帝群像』、アンミアヌス・マルケリヌスの『ローマ帝政の歴史』、更に時代が下って6世紀のプロコピウス『秘史』でも同様である。タキトゥス『年代記』で「ローマの」がprinceps/imperatorに冠された回数は6回、『同時代史』では2回、カッシウス・ディオでは2か所、『ローマ帝政の歴史』では4回(2020年2月現在日本語訳は三冊中の第一分冊しか出ていないが、第一分冊では3か所Romani Principis(及びその格変化形)が登場しており、訳者山沢考至はすべて「元首」の訳語を当てている(最後の一か所はimperator Romanusで29巻1-4(日本語訳では第三分冊収録予定)に登場している)『秘史』では5回登場している。このように、「ローマ皇帝」という用例は、古代において存在していたものの、文学作品に限られておりかつ非常に稀である
^ 編纂史料においてもこの同じ時期から「ローマ皇帝」の用語が登場する。814年頃完成したと考えられているテオファネス作『テオファネス年代記』は、ディオクレティアヌスの治世284年から書き起こしているが、年代表記時の各皇帝の治世年を記載する箇所ではディオクレティアヌス以降全皇帝の名前の前に「?ωμα?ων βασιλε??(ローマ人の皇帝/ローマ皇帝)」が冠されている
^ 西洋古代史家田中創は、「アウグストゥスのゆくえ―ローマ帝国統治の模索」#佐川2023で次のように述べている「八一二年頃から"ローマ人たちの王"というギリシア語銘の入った貨幣がコンスタンティノポリスのローマ皇帝によって発行されるようになったことが指摘されている。この変化は、西に新しい帝権が登場したという政治的現実を前にして、支配理念を新たに表現する必要から生じたものと推測されるのである。単なる"王"ではなく、"ローマ人たちの"王であると敢えて説明的に喧伝しなければならなかったことは、ローマ世界の普遍性が自明のものではなくなった時代の変化を象徴的に示している」(p160)とし、更に註47において「"ローマ人たちの王"という表現自体は既に七世紀頃から広く用いられていた。本稿では貨幣が外交上重要なプロパガンダ媒体であったこと、形式面で保守的な媒体である貨幣上でもこの時期に変化が起きたということを重視している」(p165)と述べている
^ 最初にポンティフェクス・マクシムスに就いたローマ司教としてはレオ1世の他にダマスス1世シリキウスとする説もある[44]
^ より正確には、紀元前23年より、1年限りの護民官職権が毎年付与された[20]
^ タキトゥスは軍事力によって皇帝が定まるのが「帝権の秘密(imperii arcano)」(『同時代史』1巻4章2節)だと記載しており、この点は現代の学者も受け入れている。南川高志は「イタリアの外で皇帝に擁立された者は、首都で元老院の承認を得、民衆の歓呼を受けることを目指したけれども、それをしなければ皇帝ではないという観念があったとは思われず」と記載している(#笠谷2005所収「ローマ皇帝権力の本質と変容」p216
^ 島田誠は、オクタウィアヌスの後継者選定では皇帝家(ドムス・アウグスティー)集団が大きな影響を持ったと論じている(島田誠「ティベリウス政権の成立とその性格」2001年)
^ 例えばマルクス帝は、ピウス帝の養子となり皇帝家の一員となった後、それぞれの職務に時をあけて就任している(『ローマ皇帝群像I』哲学者マルクス・アントニヌスの生涯6節
^ コンモドゥス帝暗殺後やカラカラ帝暗殺後の混乱期等
^ この仕組みはビザンツ帝国末期まで続き、皇位継承法はビザンツ帝国の滅亡まで成立せずに終わった
^ なお、南川は「ローマ皇帝権力の本質と変容」(#笠谷2005p218)において1980年代のファーガス・ミラーの研究以降、「すべてをパトロネジに還元して説明することができなくなり」「ローマ皇帝を「最高にして最大のパトロン」と定義することも再考を要するようになった」としている
^ ただし、大清水裕『ディオクレティアヌスと専制君主政』『歴史と地理―世界史の研究』242、2015年p61には「ディオクレティアヌスに始まる「専制君主政」という見方は、古代末期研究の進展とともに大きく見直しを迫られている」とし、この文言を引用した南雲泰輔は「2010年や2012年の主張から後退しているように見える」とコメントしている(南雲泰輔『ローマ帝国の東西分裂』2016年岩波書店、註p47,註(5))
^ 法律では、アウグストゥスとティベリウスと同様の権限を有する、と記載されている。アウグストゥスとティベリウスが法律に拘束されなかったのかが事実かどうかはともかく、ウェスパシアヌスの時代にはそのように思われていたということが、この法律から確認されるわけである。法律全文の日本語訳は#古山2002所収

出典^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌6 新約時代編[XVIII][XIX][XX]』株式会社筑摩書房、2000年、ISBN 4-480-08536-X、P23・80・186
^ a b 弓削2010、pp.150-151。
^ [皇帝]黒田日出男 編『歴史学事典〈第12巻〉王と国家』弘文堂、2005年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 9784335210433。 
^ a b c d ルル2012、p.30
^ a b c ルル2012、p.38。
^ a b ルル2012、p.31。
^ ルル2012、p.33。
^ ル・ル2012、pp.39-40。
^ a b c d 弓削2010、p.154。
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