中世における「ローマ帝国」である、東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。 ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、紀元前44年に暗殺された[6]。その後も内戦やプロスクリプティオは続き、紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った[7]。その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、事実上彼を最初のローマ皇帝とした[8]。 帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、「パクス・ロマーナ」として知られている[9]。ローマはトラヤヌスの治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。トラブルの増加と衰退の期間は、アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177-192)の治世で始まった。コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、短命の皇帝が続出し、多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。帝国はアウレリアヌス(R.270-275)のもとで再統一された。その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、皇帝の多くもキリスト教を信仰した。コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、西ローマ帝国は一旦崩壊した。 東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝の最高権力を継承しており、800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、古代ローマ帝国の命脈を保った。 ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、ローマの制度と文化は、ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、永続的な影響を与えた。ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。帝国がキリスト教を採用したことで、中世のキリスト教が形成された。ギリシャとローマの芸術は、イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。ローマの建築の伝統は、ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、また、イスラーム建築に強い影響を与えた。ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、ローマの共和制制度は、中世のイタリアの都市国家の共和国、初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、永続的な遺産を残している。 古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。 紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。 330年にコンスタンティヌス1世が、後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。
概要
歴史