ローマ帝国
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例えば、セウェルス朝創始者のセプティミウス・セウェルス帝はアフリカ属州出身であったし、五賢帝の一人であるトラヤヌス帝はヒスパニア属州出身であった[10]
ユリウス=クラウディウス朝と内乱期

このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウスの死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。

やがて、世襲の弊害により、カリグラネロなど無軌道な皇帝が登場すると、彼らは対立候補を挙げて決起し、また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。

ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしている。

また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。ローマの領域内は安定を見せたものの、賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。

時系列的には、初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、通貨制度の整備、ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州皇帝属州の創設)などを行い、帝国の基盤が整えられた。さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、帝国の領域は拡大し、安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、パクス・ロマーナと呼ばれる平和が長く続くこととなった。14年にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだティベリウスも内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、3代カリグラは暴政を行って暗殺された。次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、再び安定した国家を築きあげた。続くネロの統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、ネロは68年に反乱を受け自害した。ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。4人の皇帝が次々と擁立されたことから、この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、やがてウェスパシアヌスが勝利し70年フラウィウス朝を開始すると、ローマは小康状態を取り戻した。

フラウィウス朝はウェスパシアヌス、ティトゥスと名君が続いたが、次のドミティアヌスが暗殺され、後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。
五賢帝の時代(ネルウァ=アントニヌス朝)

ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。

のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。しかしながら五賢帝は、やや遠いながらも血縁関係があり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、この時代の理想化を避けた観点からは、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。

またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。

96年 - 98年 ネルウァ

元老院から選出される。後継者にトラヤヌスを指名した。


98年 - 117年 トラヤヌス

「至高の皇帝」。最大領土を現出。ダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを占領して属州を置き、帝国領土は東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。


117年 - 138年 ハドリアヌス

パルティアと和平してアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退し、東方国境を安定させる。全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。


138年 - 161年 アントニヌス・ピウス

内政の改革や財政の健全化に努めた。


161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス

「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。


161年 - 169年 ルキウス・ウェルス

マルクス・アウレリウスと共同皇帝、パルティア戦争に従事。その後の蛮族の侵攻の最中に食中毒で病死。


180年 - 192年 コンモドゥス

マルクス・アウレリウスの嫡子、ローマ帝国で二例目の直系継承を果たしたが悪政の末に暗殺されネルウァ=アントニヌス朝は断絶した。


セウェルス朝

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、実子であるコンモドゥス帝の悪政により社会は混乱し、彼が192年に暗殺されると内乱が勃発した。193年には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、当初から軍事色の強い政権であった。

五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。これに対処すべく、212年カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、これによってローマ市民権の価値が崩壊し、政治バランスが激変して、以後長く続く混乱の一因となった。また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、軍事力の衰退を招いた[11]

235年アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。
混乱と分裂詳細は「3世紀の危機」を参照

いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。約50年間に26人[注釈 1]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。

284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。


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