ローマ字
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^ 外国式氏名の場合のみ、ジェ→JIE、チェ→CHIE、ティ→TEI、ディ→DEI、デュ→DEYU、ファ→FUA、フィ→FUI、フェ→FUE、フォ→FUO、ヴァ→BUA、ヴィ→BUI、ヴ →BU、ヴェ→ BUE、ヴォ→BUOも使用される。また、これ以外の方式を使用する場合には、申請書を提出して許可を受ける必要がある(たとえば、「さとう "Sato"」を"Satoh"、「ようこ"Yoko"」を"Yohko"、「おおさわ"Osawa"」を"Ohsawa"とするように、oの後につく長音を"h"で表したい場合)。
^ 苗字または名の最後が「オオ」音であり、そのヨミカタが「オオ」の場合、"oo"のつづりとなる(例:「高遠」(たかとお)="Takatoo")。
^ a b 英語由来の外来語普通名詞についてはそのまま英語表記が使われる(例:商業施設名などの「○○シティ」="○○ City")。
^ 田園調布駅の例:"Den-en-ch?fu"

ローマ字の歴史
近世

戦国時代に来日して、キリスト教の布教に当たったカトリック教会イエズス会が、ポルトガル語に準じたローマ字で日本語を表記した。これがポルトガル式ローマ字である。1581年には大分で最初の日本語とポルトガル語対応の辞書(『日葡辞書』)が作られ、1603年には本格的な『日葡辞書』が出版されて、その中でポルトガル式ローマ字で当時の日本語が表記された。年紀が判明する現存最古のポルトガル式ローマ字文書は、1591年使徒行伝『サントスの御作業の内抜書』(Santos no Gosagveo no uchi Nuqigaqi)である。また、京都市御土居跡からは、「Pe.せるそ様」(宣教師〈パードレ〉セルソ・コンファローネ〈1586?1614在日〉と推定)に宛てられた木簡が発掘されており、そこに「mairu(日本語の「参る」)」というローマ字表記が見られる。

南蛮文化に興味が深かった細川忠興は、発布した書状の中に「tadauoqui」と記されたを使うことがあった。「(あるいは)」を「uo」、「」を「qui」と記すのは、日葡辞書にて頻繁に確認できるイエズス会士の表記法である[23]

17世紀初期には、イエズス会士ジョアン・ロドリゲスによって『日本大文典』(イエズス会が1604年長崎にて認可[24])および『日本語小文典 Arte Breve da Lingoa Iapoa』(イエズス会が1620年にマカオにて認可、1825年仏訳を、ランドレスが出版[25])が、あいついで出版されており、そこには日本語音のポルトガル式ローマ字表記に関する記述が認められる。

ポルトガルイエズス会ジョアン・ロドリゲス著『日本大文典(または日本語大文典[26])』(1604年にイエズス会が印刷認可)によるポルトガル式ローマ字表(抜粋)を参考までに以下に示す[27]

あ(A)い(I)う(V)ゑ(Ye)を(Vo)

か(Ca)き(Qui)く(Qu)け(Que)こ(Co)

さ(Sa)し(Xi)す(Su)せ(Xe)そ(So)

た(Ta)ち(Chi)つ(Tcu)て(Te)と(To)


なお、ロドリゲスはその後、『日本語小文典』[注 7](1620年イエズス会印刷認可)において当時のポルトガル式日本語表記法について詳細に述べている[28]

江戸時代には鎖国政策によって、事実上、オランダがヨーロッパ世界との唯一の窓口となったため、オランダ式ローマ字が使われるようになった。このようにたくさんの国のローマ字がある。ただオランダ式ローマ字は仮名と厳密に一対一対に応させられていたわけではないし、またその使用も、宣教師や学者などのごく狭い範囲に限られた。
ヘボン式と日本式の登場

幕末の1867年、来日していたアメリカ人ジェームス・カーティス・ヘボンが和英辞書「和英語林集成」を著し、この中で英語に準拠したローマ字を使用した。これは、仮名とローマ字を一対一で対応させた最初の方式である。この辞書は第9版まで版を重ね[29]、第3版から用いたローマ字はヘボンの名を入れヘボン式ローマ字として知られるようになる[29]

明治6年(1873年)、文部省雇になり史略編集を命ぜられていた黒川真頼(のち東京帝国大学教授文学博士)はローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられ、この年の3月にローマ字綴りの『横文字百人一首』を刊行している[30][31]。この著作はローマ字書きによって日本語の本質を明らかにしようとすることが目的であった[32]明治の一部の学者たちは、日本語に使用される文字(いわゆる漢字)の数を大幅に減らして習得を容易にするとの名目で、日本語の主たる表記をローマ字とすべきという主張(ローマ字論)を展開した。

ヘボン式ローマ字は英語の発音に準拠したので、日本語の表記法としては破綻が多いとする意見があった。そうした立場から、1885年に田中館愛橘が音韻学理論に基づいて考案したのが日本式ローマ字である。日本式は音韻学理論の結実として、日本国内外の少なくない言語学者の賛同を得た。しかし、英語の発音への準拠を排除した日本式は英語話者や日本人英語教育者から激しい抵抗を受け、日本式とヘボン式のどちらを公認するかで激しい議論が続いた。

1924年の第15回衆議院議員総選挙ではローマ字での投票が認められた。
訓令式制定

混乱を収束するため、政府は1930年11月26日、臨時ローマ字調査会を設置した(勅令、1936年7月1日廃止)。そして、1937年の近衛文麿内閣の時に、公的なローマ字法が内閣訓令第3号[33]として公布された。これが訓令式ローマ字である。1937年版の訓令式は、日本式を基礎としてそれに若干の改変を加えたものであり、ヘボン式を排除している。
戦後のヘボン式復権

ところが第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)9月2日の連合国軍最高司令部指令第2号の第2部17において、各市町村の道路の入口と駅に「修正ヘボン式ローマ字」によって名称を表示するように指示されたことなどもあり[34]、ヘボン式が復権を果たし、現在に至る。

さらに、GHQの占領政策の一環で招かれた第一次アメリカ教育使節団は、1946年(昭和21年)3月31日に発表した第一次アメリカ教育使節団報告書においても、同様の意見をなした。しかし、どちらも批判が大きく、その意見が世間に受け入れられることはなかった(漢字廃止論も参照)。

日本国政府としては訓令式を正式とし続けており、1937年の内閣訓令第3号を廃止し、1954年に内閣告示第1号として新たに公布し直した。これが新たな訓令式ローマ字である。これは1937年の訓令式(日本式に準拠)を基礎としながら、若干の改変を加えたものである。ただ、1937年版がヘボン式を全面排除したのに対して、1954年版は「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合」に制限しながらも、ヘボン式の使用も認めるものとなった。

また、同年発売された研究社の『新和英大辞典』第三版で考案され、後に英米で日本語のローマ字表記法として採択された修正ヘボン式では部分的に訓令式の表記法を取り入れ、かつ訓令式では規格外となる一部の表記ルールを排除するなど、訓令式とヘボン式が歩み寄りを見せることになった。
国際規格化

1962年、国際標準化機構(ISO)の情報管理の専門委員会であるISO/TC 46がローマ字表記法を審議対象にすることを初めて決定。当初はヘボン式が多数の賛同を得ていたものの、同委員会における日本代表は内閣告示及び訓令を根拠に再審議を求めた。最終的には1989年(平成元年)、ISOが訓令式(厳密翻字は日本式)を採用し、ISO 3602として承認した。

1985年時点の規格案

現代日本の現状

21世紀においても、日本国内の標準として公式に認められているローマ字表記は訓令式であるが、地名や人名などの各種日本語音をローマ字表記する必要がある場合、実際には日本国政府でも各種の旧・修正ヘボン式及びその亜種の表記が多用されているのが現状である[35]

1954年版の訓令式の第2表によって修正ヘボン式の表記が事実上許容されて以降、訓令式での表記を謳っている場面でも、実質的には修正ヘボン式に基づいた表記が用いられている場合が多く、訓令式の第1表のみを用いた純粋な訓令式表記を目にする機会は少なくなりつつある。なお、長音符のサーカムフレックスやマクロンはコンピューターでの入力が煩雑かつ使用不可の場合も多いため使用されることが減っている。

また、表記の不統一によってローマ字教育は混乱しており、海外の日本語学習者の妨げになっている[36]。こうした状況を鑑みて、日本国政府は2024年に入ってから訓令式を定めた内閣告示の改正に向けた検討を開始しており、ヘボン式が広く使われている実態に合わせて訓令式は廃止される見通しが示されている[20]
ローマ字表記の例外

各方式が確定する以前に、西欧の諸言語の影響を受け、様々な表記法が存在していた名残もある。

Yen - 日本の通貨単位の
(えん)


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