ロードアイランド州
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ロードアイランド州の公式名称は、全米で最も長い State of Rhode Island and Providence Plantations であった[3]が、2020年に State of Rhode Island に変更された(州名変更の項参照)。日本語訳すると、「ロードアイランド及びプロビデンス・プランテーション州」であった。プランテーションを「植民地」や「農園」などと訳す人はいるが、ロードアイランドの方を「ロード島」と訳す人は見かけない。ロード島(別名:アクィドネック島)は、ナラガンセット湾の島で、現在はニューポート郡に属する。プロビデンス・プランテーションは、ロードアイランド州の起源となった植民地集落の名で、ここを中心に、ロードアイランドなどの周辺地域に農地を広げていった。

州名に「アイランド」がついているが、その大半はアメリカ合衆国本土にある。この州名は2つの開拓地の統合の結果で生じた。ロードアイランド植民地は、ナラガンセット湾に浮かぶ幾つかの島の中では最大のアクィドネック島と呼ばれる場所で、現在のニューポート市近くに設立された。プロビデンス・プランテーションは、現在プロビデンス市がある地域にロジャー・ウィリアムズが設立した植民地の名前である[4]

アクィドネック島がどのようにしてロード島と呼ばれるようになったかは不明だが、2つの学説がある。

探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが1524年に、ナラガンセット湾口近くある島の存在を記しており、それがオスマン帝国ロドス島(現在はギリシャに属する)に擬えられた。その後のヨーロッパ人探検家はヴェラッツァーノが名付けた島を正確に特定できなかった。後にこの地域に入植したピルグリムが、ベラッツァーノのロードス島はアクィドネック島であると想定した。

第2の学説はアドリアン・ブロックに関するものであり、1610年代に探検したときにアクィドネック島の側を通り、1625年の旅行記で、「赤みを帯びた島」と表現していた。17世紀のオランダ語では「赤み」がロドリッチ(rodlich)と発音された[5]歴史家達はその「赤み」が秋の紅葉からきたものか、岸の一部にある赤い粘土からきたものであると論じている[6][7][7]
ヴェラッツァーノ記念碑、プロビデンス市

アクィドネック島について「ロード島」という名前を使った初期の文書は、1637年のロジャー・ウィリアムズによるものである。その名前は1644年に公式に適用された。「アクスネックは今後、アイル・オブ・ロードスあるいはロード・アイランドと呼ぶことにする。」アイル・オブ・ロードスは1646年には既に法的文書で使われていた[8][9]オランダの地図では1659年のものでこの島を「レッド・アイランド」(Roodt Eylant)と表示していた。

ロジャー・ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地を追い出された神学者だった。信仰と政治の寛容さを求め、他の者達と共に自由な領主植民地として「プロビデンス・プランテーション」を設立した。「プロビデンス」は神の摂理を表し、「プランテーション」は英語で植民地を表す言葉だった。

2009年6月25日、ロードアイランド州議会はその長い名称を続けるか、あるいは奴隷制度に係わるという誤解を生みやすい「及びプロビデンス・プランテーション」を切り捨てるかを住民が選ぶことを認めた[10]2010年11月2日の選挙と同時に行われた住民投票の結果、78%対22%という圧倒的な差で現行名の存続が決まった[11]
州名変更

2020年に起こったジョージ・フロイド抗議運動の中で州名問題が再燃し、州上院は6月18日に「及びプロビデンス・プランテーション」の削除を満場一致で可決[12]した。これを受け6月22日に州知事ジーナ・レイモンドは州の公的文章から削除することを決定した[13]。州名変更案は、7月16日に州議会両院を通過(州下院は賛成69反対1棄権5[14]、州上院は賛成35反対0棄権3[15])し、11月3日に大統領選挙と同時に行われた住民投票において賛成52.8%対反対47.2%で承認された。[16][17]
歴史詳細は「ロードアイランド州の歴史」を参照
植民地時代: 1636年-1770年詳細は「ロードアイランド植民地」を参照ロジャー・ウィリアムズが1638年に設立した信徒団が、1776年にプロビデンスの歴史的な教会を建設したロジャー・ウィリアムズと、なぜか平原インディアンの格好をしているナラガンセット族(A・H・Wray画、19世紀)

1636年1月、イギリス国教会およびアメリカ・インディアンの土地の強奪に対する強烈な批判を行ったためマサチューセッツ湾植民地を追放されたロジャー・ウィリアムズと4人の信奉者が、ナラガンセット湾の北部沿岸の土地をナラガンセット族とピクォート族インディアンから「購入」して、集落を作った。この両部族はマサソイトが率いるワンパノアグ族に従属していた。ウィリアムズは、ここをバプテスト開拓者のための宗教的自由の地と宣言し、「逆境にある私に神の慈悲深い摂理を感じさせる」と言って[18]、プロビデンス(神の摂理)と名付けた。

ロジャー・ウィリアムズが去ったマサチューセッツ湾植民地では、今度は、アン・ハッチンソンという女性が、反律法主義の立場から聖職者たちの地位を否定する信仰を説き、多くの民衆の心を掴んだため、聖職者や施政者から危険視され、ついには1638年3月に追放された。彼女は夫と数人の同調者と共に、プロビデンスへ向かったが、彼女の信仰は受け入れられず、アクィドネック島(当時はロード島と呼ばれていた)へ渡り、地元のインディアンから土地を購入した。この開拓地はポーツマスと名付けられ、ポーツマス盟約によって治められた。島の南部は、設立者の間に不和が生じた後で、ニューポートという別の開拓地になった。

その後、プロビデンスのロジャー・ウィリアムズらは、バプテストだけに限らず、広く信教の自由を認めるようになり、クエーカー教徒ユダヤ人カトリック教徒などを受け入れ、完全な信教の自由を保障する唯一の植民地として発展した。

1642年、サミュエル・ゴートンがシャウォメットでインディアンの土地を購入し、マサチューセッツ湾植民地との軍事的な紛争を引き起こした。1644年、プロビデンス、ポーツマス、ニューポートの開拓地は「ロードアイランド及びプロビデンス・プランテーション植民地」という名称で統合され、選別された委員と「プレジデント」によって統治された。ゴートンは1648年にその開拓地に対する勅許を取得し、その守護者に因んでウォリックと名付けた[19]

1663年7月8日、イギリス国王チャールズ2世は、ジョン・クラークに対して、4つの植民地を統合した「ロードアイランド及びプロビデンス植民地」の勅許状を与えた。

フィリップ王戦争(1675年-1676年)のとき、ジョサイア・ウィンスローが率いたマサチューセッツ、コネチカットプリマスの民兵隊が、1675年12月19日、現在のキングスタウンにあったグレートスワンプの要塞化されたナラガンセット・インディアン集落を襲い、破壊した。


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