ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
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中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340年頃生 - 1408年没)であろう。1373年にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)。ヤコブ教会の増築を決定。また1398年には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。それと同時に、ゴシック様式の市庁舎の建設も始まった。1378年、ローテンブルクはウルムを盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。1400年ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方の中ではニュルンベルクに次ぐ第二位の人口を抱える都市となった。

1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。

1525年ドイツ農民戦争において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー率いる反乱軍側につき、プロテスタントに改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。
近世17世紀のローテンブルク

1544年、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。いわゆる宗教改革である。1559年にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリックを信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。

1572年1501年に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。その後、三十年戦争が勃発するまでの間、街は繁栄した。

1618年に勃発し1648年まで続いた三十年戦争の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。1631年1634年1645年にローテンブルク付近で戦闘があった。

1631年10月にカトリックティリー伯ヨハン・セルクラエスが、プロテスタントルター派のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めた。街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇『マイスタートゥルンク』の話の元になっている。

帝国都市連合は1632年-1634年にかけてスウェーデンと同盟した。1634年にはペストの大流行によって多くの死者が出た。1645年にフランスの軍隊に占領された。1650年に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が17世紀のままの状態で保存された理由である。

1688年大同盟戦争では、フランスの侵攻を受けてドイツ側の軍隊(ラントヴェーア)は大損害を受けたがローテンブルクは占領されなかった。街の再建は18世紀まで続いた。

1793年フランス革命戦争もこの地に大きな騒乱をもたらした。この頃、既にアンスバッハ侯領バイロイト侯領を引き継いだプロイセン王国はローテンブルクとの間で国境を画定する合意書に署名している。この事は、ローテンブルクのような小さな帝国都市であっても、その独立性を認められていた事を意味している。
近代1900年頃のローテンブルク

フランス革命戦争ではオーストリア軍および帝国クライス軍がフランスに敗北した。この賠償のために神聖ローマ帝国はライン川左岸地域をフランスに割譲する事となった。このとき神聖ローマ帝国が失ったライン川左岸地域の領土を領有していた諸侯に対しては、残っている神聖ローマ帝国領を再分割して領地を補償する事となり、そのために招集された帝国代表者会議主要決議において1803年に決議が成立した。この決議により、500年にわたる独立都市としての歴史を持つローテンブルクは、その意思に反してバイエルン領に併合された。帝国の負債のため、バイエルンは多くの公共建築物や土地を売却した(例えば現在の教会広場となっている牛乳市場の Marienkapelle や、Stauferburg の大きな塔など)。帝国クライス会議の代議士を勤めた名門の家系も土地を失い、von Stadt 家を除いて他所へ移って行った。

1806年にはナポレオンの圧力により、フランス主導でバイエルン王国が成立。同時にライン同盟に加盟し、フランスの影響下に置かれた。ローテンブルクは辺境地帯となり、経済危機はさらに悪化した。

1813年にはナポレオン敗退によりライン同盟は解消、1815年ウィーン会議によりバイエルン王国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦に加入した。

このドイツ連邦も、1866年普墺戦争プロイセン勝利をもって解消された。1871年ドイツ帝国が成立すると、バイエルン王国もドイツ帝国に組み込まれた。また、1873年には鉄道が開通した。これらの理由によりドイツ帝国内からの旅行が容易になり、次第に観光客が増え始めた。また工業化(乳母車工場など)も進め、経済は回復を始めた。

1880年代になると、ロマン主義の画家らによってローテンブルクが再発見され、イギリスやフランスからも人気の観光地となっていった。街並みに大きな変更を加える事を禁ずる法律が作られた。第一次世界大戦前には、現在も存在しているホテル・アイゼンフートに滞在するバスツアーまであった。

ヴァイマール共和国時代、この都市とその周辺の選挙区は、NSDAP支持者の多い地区となり、1933年の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。


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