ローザ・ルクセンブルク
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彼女はポーランド王国社会民主党(SDKP) およびポーランド王国・リトアニア社会民主党 (SDKPiL) の理論家であり、のちにドイツ社会民主党ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、帝国軍の残党やフライコール(義勇軍)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれる。
生涯
ポーランド時代

ローザ・ルクセンブルクは、1870年もしくは1871年3月5日ロシア帝国の事実上の属国であったポーランド立憲王国の都市、ルブリン近郊のザモシチで生まれた。ユダヤ人の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世と、その妻のリーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供であった[1]。出生時の名前はロザリアである。生年について2通りの説があるのは、チューリッヒ大学へ提出した履歴書には1871年生まれと記載されているのに対し、1887年に発行された高校卒業証書には彼女が17歳である(すなわち1870年生まれである)と記されていることによる[2]。自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代にはゲーテシラーに傾倒して多大な影響を受けた。

1873年、一家はワルシャワへ転居した[2]。ローザはワルシャワ第2女子高校へ通うこととなり、1887年には優秀な成績で高校を卒業した[3]。前年の1886年以降、彼女はポーランドの左翼政党である「プロレタリアート」のメンバーとなっている。「プロレタリアート」は1882年に設立されて、ゼネラル・ストライキを組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑され、党自体はすでに解散に追い込まれていた[4]。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため、1889年にはローザにも拘禁の危機が迫り、スイスのチューリッヒに亡命[5]。チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学・歴史学・政治学・経済学・数学を学んだ。同じ時期には、アナトリー・ルナチャルスキーレオ・ヨギヘスといった社会主義者たちも、この大学に在籍していた。「Staatswissenschaft(政治体制の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。

1890年、社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、ドイツ社会民主党(以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。しかし社会主義者の議員たちは、自身が議会に所属していることもあり、議会をも打倒する革命というのはいささか矛盾を孕んでいて、革命に積極的でなかった。1895年。ローザ・ルクセンブルク

それに対してローザは、 革命的マルクス主義者として、1893年にはポーランド社会党国家主義的な方針に反対して、レオ・ヨギヘスやユリアン・マルフレフスキ(別名ユリウス・カルスキ)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の大義」)紙を発刊[6]


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