ローザ・ルクセンブルクは、1870年もしくは1871年3月5日、ロシア帝国の事実上の属国であったポーランド立憲王国の都市、ルブリン近郊のザモシチで生まれた。ユダヤ人の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世と、その妻のリーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供であった[1]。出生時の名前はロザリアである。生年について2通りの説があるのは、チューリッヒ大学へ提出した履歴書には1871年生まれと記載されているのに対し、1887年に発行された高校卒業証書には彼女が17歳である(すなわち1870年生まれである)と記されていることによる[2]。自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代にはゲーテやシラーに傾倒して多大な影響を受けた。
1873年、一家はワルシャワへ転居した[2]。ローザはワルシャワ第2女子高校へ通うこととなり、1887年には優秀な成績で高校を卒業した[3]。前年の1886年以降、彼女はポーランドの左翼政党である「プロレタリアート」のメンバーとなっている。「プロレタリアート」は1882年に設立されて、ゼネラル・ストライキを組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑され、党自体はすでに解散に追い込まれていた[4]。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため、1889年にはローザにも拘禁の危機が迫り、スイスのチューリッヒに亡命[5]。チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学・歴史学・政治学・経済学・数学を学んだ。同じ時期には、アナトリー・ルナチャルスキーやレオ・ヨギヘスといった社会主義者たちも、この大学に在籍していた。「Staatswissenschaft(政治体制の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。
1890年、社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、ドイツ社会民主党(以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。しかし社会主義者の議員たちは、自身が議会に所属していることもあり、議会をも打倒する革命というのはいささか矛盾を孕んでいて、革命に積極的でなかった。1895年。ローザ・ルクセンブルク
それに対してローザは、 革命的マルクス主義者として、1893年にはポーランド社会党の国家主義的な方針に反対して、レオ・ヨギヘスやユリアン・マルフレフスキ(別名ユリウス・カルスキ)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の大義」)紙を発刊[6]。