ロンダ・ラウジー
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ロンダ・ラウジー
基本情報
本名ロンダ・ジーン・ラウジー
(Ronda Jean Rousey)
通称ラウディ (Rowdy)
アームバー・クイーン (Armbar Queen)
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 (1987-02-01) 1987年2月1日(37歳)
出身地カリフォルニア州リバーサイド
所属チーム・ハヤスタン
グレンデール・ファイトクラブ
身長170cm
体重61kg
リーチ173cm
階級バンタム級
バックボーン柔道
家族トラヴィス・ブラウン(夫、2017年8月 -)
テーマ曲Bad Reputation
ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ)
総合格闘技戦績
総試合数14
勝ち12
KO勝ち3
一本勝ち9
敗け2
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獲得メダル
アメリカ合衆国
柔道
オリンピック
2008 北京70kg級
世界柔道選手権
2007 リオデジャネイロ70kg級
世界ジュニア柔道選手権
2004 ブダペスト63kg級
2006 サントドミンゴ63kg級
パンアメリカン競技大会
2007 リオデジャネイロ70kg級
パンアメリカン大陸柔道選手権大会
金200463kg
金200563kg
銀200663kg

ロンダ・ラウジー
主な作品
エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
ワイルド・スピード SKY MISSION
マイル22
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WWEに出演するロンダ

ロンダ・ラウジー(Ronda Rousey、1987年2月1日 - )は、アメリカ合衆国柔道家、プロレスラー、女優、総合格闘家カリフォルニア州リバーサイド出身。初代UFC世界女子バンタム級王者。第4代Strikeforce女子バンタム級王者。UFC殿堂入り。チーム・ハヤスタン/グレンデール・ファイトクラブ所属。北京オリンピック柔道70kg級銅メダリスト。アメリカの女子柔道史上初のオリンピックメダリスト。

母親のアン・マリア・ラウジー・デマルスも柔道家で、1984年の世界選手権56kg級で優勝している[1]。夫は総合格闘家のトラヴィス・ブラウン
来歴

へその緒が巻きついて産まれてきた影響で、6歳頃までは言いたいことが上手く言葉に出来ない言語障害があったが、言語聴覚士との訓練で障害を克服した[2]。8歳のときには、父親がソリ滑りの事故で背骨を骨折、合併症を引き起こして余命宣告を受けた後に自殺している[3]
柔道

8歳までは水泳をやっていたが、父親が亡くなったのをきっかけに柔道に転向した[2]

16歳のときにジム・ペドロ・シニアとジミー・ペドロの柔道家親子に出会い、途中に別のコーチに変更することもあったが2003年から2009年まで指導を受けた[2]ロンドンオリンピックの柔道78kg級金メダリストのケイラ・ハリソンはラウジーの後輩で、同じペドロ門下生として普段の練習は勿論のこと、ペドロの自宅に住み込みで厳しい合宿を行うなど切磋琢磨した練習仲間でもある[4]

2004年、8月に17歳でアテネ五輪に63kg級で出場し、一回戦で敗退したが[5]、10月に開催された世界ジュニア柔道選手権に63kg級で出場し、金メダルを獲得した。

2006年、世界ジュニア柔道選手権63kg級に出場し、銅メダルを獲得した。

2007年、階級を70kg級にあげ、世界柔道選手権で銀メダル、パンアメリカン競技大会で金メダルを獲得した。

2008年、北京オリンピックの70kg級に出場。準々決勝でオランダエディス・ボッシュに敗れたが、敗者復活戦を勝ち上がり、銅メダルを獲得[6]、アメリカの女子柔道選手で初のオリンピックメダリストになった[4]

柔道関係者からは2012年のロンドンオリンピックで金メダル獲得を期待されていたが、ラウジー自身は質実剛健で反復的な柔道生活に飽きていたため、オリンピック直後のインタビューで、1年ほど休養を取ってローンを組んでサーフィンやドライブなどやってみたいことを楽しみ、柔道一筋だった日々の埋め合わせをしてから大学進学などを考えたいと述べた。同じインタビューで総合格闘技転向について「わからないわ。総合格闘技のコーチの知り合いがいて、パンチの打ち方を練習してから試合に出てみないかと誘われているの。だからパンチの練習をやってみるかもしれないけど何も決まっていないわ」としていた。その後はバーテンダーとカクテル・ウェイトレスとして3軒の店を掛け持ちで忙しく働きながら、しばらく普通の生活を送った[3][7][8]

2009年、谷本歩実の紹介でコマツに1年間柔道留学する契約を結び、1年ぶりに柔道に復帰をして、ペドロの道場で2ヶ月間練習した後にハリソンやペドロと共に日本へ渡った。日本で大歓迎で迎えられるが、わずか4日後にラウジーは自分にとって必要なことではないと、コマツ側に相談もせずにアメリカへ帰国してしまう。残っていたメンバーも居づらくなり6週間後に帰国している[4]

帰国後、母親に総合格闘家になる夢を打ち明け、最初は「とんでもない」と言われてしまうが、説得をして1年間は見守ってくれるよう了解を得て、晴れて総合格闘家へ転向した[3]
母親との関係

世界選手権金メダリストである母親は経験を生かしラウジーに柔道に関して様々なアドバイスを送ったが、ラウジーのコーチを立て、出すぎたことはせず常に二番手以下に徹した。ラウジーはこのことについて「彼女がそうしてくれて嬉しかったわ。私にはママが本当に必要だったのよ、トレーニングの不満をママにぶつけることが出来たわ。それに、たまにコーチが嫌いになることもあるでしょ、ママのことは嫌いになりたくなかったからね」と述べている[2]

ラウジーが11歳のとき、柔道の練習中に親指を骨折して泣き出したところ、母親に練習が終わるまで柔道場を走らされたことがあった。ラウジーはその時は酷い母親だと思ったが、あとで「怪我をしても戦わなければいけない時があるの。そして、あなたはそれが出来る才能があるってことを知る必要があったの」と言われたエピソードがある[2]

「ロンダは負けず嫌いなの。たとえ相手がずっと大きくても、ずっと強くても、彼女は切り抜ける方法を探し出そうとするの。ロンダが13歳のときに道場に練習に来た40歳代の全日本チャンピオンと対戦したわ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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