ロリコン漫画
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1979年4月、吾妻ひでおの主宰する漫画制作チーム「無気力プロ」が制作した、日本初のロリコン漫画同人誌とされる『シベール』が「コミックマーケット11」で頒布された[12]。2号目くらいまでは200?300部程度の売り上げだったが、3号目くらいから18禁の「謎の黒本」としてうわさが広がり、売り上げが跳ね上がった[13]。コミケで列ができた最初のサークルだという[14]

『シベール』は1981年4月開催の「コミックマーケット17」で発行された「第7号」をもって終刊。終刊号の行列は発売前から100人前後に達した[15]。行列にはデビュー前の森山塔も並んでいたという[16]

吾妻が当時サークル参加した最後のコミケとなる、1981年夏開催の「コミックマーケット18」では、『プレイコミック』(秋田書店)誌で吾妻が連載中だった『スクラップ学園』のヒロイン・ミャアちゃんの写真集を模したイラスト集『ミャアちゃん官能写真集』を発行し、6時間で1600冊がハケた[17]。秋田書店は一応メジャー出版社なので、秋田書店の編集部からは嫌がられたが、吾妻は無視してエロ同人誌を作った[18]

この『シベール』が呼び水となり、1981年夏の「コミケット18」ではロリコン同人誌が数十誌にまで増えた[19]。その後、漫画情報誌『ふゅーじょんぷろだくと』に在籍していた緒方源次郎(現・小形克宏)が1981年10月号でロリータ特集を企画[20][21]。同号では原丸太(志水一夫の別名義)がロリコン同人誌の詳細なマップを作成するとともに、図版付きで『シベール』の内容を取り上げた。これによって、それまで関東ローカルに過ぎなかったロリコン同人誌の存在が全国に知れ渡った[22]。1982年になると商業誌でもロリコン漫画が氾濫し、「ロリコン・ブーム」と呼ばれるようになる。

1982年7月には白夜書房から同人誌アンソロジー『ロリコン白書─ロリコン同人誌ベスト集成』(ふゅーじょんぷろだくと編)が発売される。内容は同人誌の紹介を中心として、少女写真、ルポルタージュ青山正明蛭児神建らの過去発表済みの原稿など、総花的な内容だったが、ロリコンブームの後押しもあって同書は中ヒットを記録した[23]
ロリコン漫画の商業出版(1979年)

1979年当時、かつてみのり書房のアニメ雑誌『月刊OUT』やSF漫画雑誌『月刊Peke』などで吾妻を特集していた元みのり書房の編集者・川本耕次は、エロ本(自販機本)の出版を業とするアリス出版に転職していたが、吾妻が史上初のロリコン同人誌を製作して当時のコミケで頒布したことを知り、商業誌初となる「ロリコン漫画」の連載を吾妻に依頼する。こうして吾妻は『純文学シリーズ』と後に呼ばれることになる一連の作品を、アリス出版の自販機本『少女アリス』(1979年12月増刊号 - 1980年8月号、通巻15号)に連載した[24][25]

この連載は川本の退職により打ち切られたが、本作に『帰り道』(『マンガ奇想天外』に掲載)および『妄想画廊』(描きおろし)を加え、1981年7月に奇想天外社から『陽射し』の題で単行本化された。定価1200円という高めの値段ながら大いに売れ、書店(紀伊國屋書店新宿本店)でサイン会をしたら長蛇の列ができるほどだった[26]

なお、本作は商業出版されたものとしては史上初の「ロリコン漫画」となるが、エロ本に連載されたのは、元からエロ本に連載するために描かれたわけではなく、単に「吾妻ひでお推し」の編集者の川本が当時エロ本の出版社にいたからに過ぎない[27]
ロリコンブーム(1980年代)
ロリコン劇画の登場(1970年代末)詳細は「エロ劇画誌#ロリコン劇画誌の乱立(1980年年代前半)」を参照

1970年代当時、エロ漫画というとエロ劇画しかなかったが、「ロリコン・ブーム」に伴い、ロリコン漫画に挑戦するエロ劇画家も現れた。いわゆる「ロリコン劇画」(ロリコンエロ劇画)である。1980年代に入ると「ロリコン劇画」だけを集めた「ロリコン劇画誌」が乱立した。

当時のロリコン劇画の主要な作家としては、三条友美羽中ルイなどが挙げられる。特徴としては、当時のアニメの絵柄(「アニメ絵」)ではなく、劇画の絵柄で、特に当時の実在の「ロリコンアイドル」に寄せた絵柄が多い。また、「ロリコンブーム」ということで、それまで人妻エロ劇画を得意とした作家にロリコン劇画を描かせている例も少なくないことから、一応「女子校生」という設定でも、人妻がセーラー服を着ているような絵柄が多い。さらに言うと、ロリコン劇画には「若妻」「幼妻」というサブジャンルがあり、例えば『漫画ロリータ』誌の主力作家の一人であった沖圭一郎などは、「幼妻」を名目にして完全に極まった人妻エロ劇画である。

「ロリコン劇画」は、旧来のエロ劇画ファンからの人気は高かったが、なんせ絵柄が劇画なので、10代後半から20代前半(1980年当時)のアニメ世代の支持は得られなかった。時代が「エロ劇画」から「ロリコン漫画」に移り変わるに従い、乱立した「ロリコン劇画誌」は早期に潰れた例が多い。

「ロリコン劇画誌」で活躍した「ロリコン劇画家」のうち、1980年の時点で劇画度が弱かった(「アニメ絵」に近かった)野口正之中島史雄などの作家はかなり売れており、彼らのような絵柄の作家だけで雑誌を作ろうという編集者は1980年時点で存在していたものの、一方で時代はまだ「エロ劇画」の全盛期であり、「アニメ絵」の作家だけでエロ漫画雑誌が成り立つとは、業界はまだ思っていなかった。

例えば、当時の「エロ劇画御三家」の一つ『漫画大快楽』(檸檬社)の姉妹誌として1980年に創刊された『漫画バクダン』において、最も人気があったのは、後に「内山亜紀」の名でロリコン漫画の代表格となる野口正之だった。当時の「エロ劇画御三家」の一つ『劇画アリス』(アリス出版)編集長の米沢嘉博から見れば、野口が当時のロリコンファンや吾妻ひでおファンに支持されていたことは間違いなかったものの[28]、米沢が『劇画アリス』廃刊直後の1980年に出した「ロリコンマンガ誌」の企画は会社に拒否されてしまった。

しかし1981年以降、ロリコン漫画の勢いが次第に大きくなった。「ロリコン劇画家」のうち、野口正之や中島史雄など元々「アニメ絵」に近かった作家は劇画の絵柄をさらに弱め、「ロリコン漫画家」として初期のロリコン漫画誌でも活躍することになる。谷口敬は初期のロリコン雑誌『漫画ブリッコ』でも起用されて表紙を描いた。また、ロリコン漫画の勃興期にロリコン漫画に移行せず、極まったロリコン劇画を描いていた作家でも、時代の流れに従い、1980年代後半のロリコン漫画の拡大期に次第にロリコン漫画に移行した作家は少なくない。
『ヤングキッス』の創刊(1981年)

1981年11月、『ヤングキッス』(光彩書房)が創刊された。表紙は野口正之。「打倒! ヤングジャンプ ヤングマガジン」を掲げ、当時のエロ漫画誌でありながらエロ劇画誌を踏襲せず、ヤング誌を意識した物だった。作家陣も、内山亜紀(この時期に野口正之から改名)や谷口敬などのロリコン作家を擁する一方で、ほんまりうを擁するなど、やはりヤング誌を意識した物だった。創刊号の編集後記によると、『漫画ギャング』や『漫画ガロ』などを反面教師として意識していたようで、確かに「エロ劇画」からの超越を目指してはいたものの、必ずしも「ロリコン誌」とは言えなかった。エロ度も弱かった。

『ヤングキッス』は、元々はエロ劇画誌『漫画エマニエル』増刊として1980年7月に刊行されたロリコン劇画誌『純少女』の売れ行きが好評だったのを受け、内山亜紀の人気を当て込んで創刊されたものだったが、編集長の多田在良の野心により、『純少女』の延長線上ではなく、総花的な内容の「ワケわからん雑誌」[29]となってしまった。読者のハガキでは「完璧なロリコン雑誌にしてくれ」との要望が多く、多田編集長は内山のアドバイスも聞きながら試行錯誤し、刊行後期には「ロリコン漫画誌」としての布陣を固めつつあったが、全く売れずに返本率7割、6号で廃刊になった。当時は『レモンピープル』もそんなに売れていなかったことから、会社は後継たるロリコン雑誌の創刊を認めず、結局、『ヤングキッス』廃刊直後となる1982年5月に刊行された2冊目の『純少女』(ロリコン専門誌 漫画エマニエル5月号増刊)に、『ヤングキッス』7号に掲載されるはずだった漫画を掲載し、これをもってこの流れは潰えた。多田は、1986年に発売された『漫画バンプ』6月増刊号『ロリコンKISS』(東京三世社)にコラムを寄稿しており、当時の顛末を語っている。

『ヤングキッス』は、漫画史的には「プレロリコン誌」と位置付けられる[30]
「漫画ニューウェーブ」の衰退

1970年代末には斬新な感覚を持った漫画家が『劇画アリス』『月刊Peke』『月刊コミックアゲイン』『マンガ奇想天外』『漫金超』などのマイナー誌でおおぜいデビューし、「漫画ニューウェーブ」と呼ばれたが、1982年頃にもなると「ニューウェーブ」漫画家の主だった者はメジャー誌に吸収され、「ニューウェーブ」運動は消滅しつつあった[31]


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