インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派中央語群のロマ語を主に使う。ロマ語の特色として、即物的な語彙が多く、精神的・抽象的な語彙が少ないことが挙げられる[12]。
ロマ語には東欧の「ロム」、ポーランド経由でドイツに入った「シンティ」、フランスの「マヌーシュ」など3つの大きな流れと13の言語グループがあり、系統が違うと同じロマ語でも意思疎通が難しいとされる[13]。また、定住した各土地の言葉や、各地の言語を多く取り入れたクレオール言語を使っているグループもある[14]。
このため1990年4月にワルシャワで開かれた第4回世界ロマ会議で標準ロマ語が制定され、マケドニアのスコピエで話されるエリー語が標準語となった[14]。
宗教[ソースを編集]
かつてはヒンドゥー教だったと考えられているが、定住した土地での主流の宗教に改宗していることが多い。すなわち、東ヨーロッパでは東方正教会、カトリックまたは少数のイスラム教、西ヨーロッパではカトリックかプロテスタントである。独特の神秘主義的な風習はあるが、それは宗教とは別と考えられている。サラ(カリ)がいる。
歴史[ソースを編集]「反ロマ主義(英語版)」も参照
起源[ソースを編集]
ロマ出身のロマ研究家で人権活動家のグラタン・パクソンによると、ロマの起源は5世紀に遡る[15]。サーサーン朝ペルシアのバフラム5世(別名ベラム・グール、在位420年 - 438年)がムルタン(当時はインド、現在のパキスタン)からロマの祖先1万人をペルシアに連れて行った[15]。ロマは当時、ルリーと呼ばれていた[15]。
8世紀には、ムルタンの近くのシルマン山にヤットという名称のロマの集団が住んでいた[15]。彼らはインドの支配から独立を望み、アラブによるインドへの侵攻時にアラブと手を組んだ[15]。ところがアラブがインドに敗北してしまったため、714年、退却するアラブの軍勢とともに西へ移動した[15]。これがロマの起源であるとパクソンはいう[15]。このパクソンの説を裏付ける記述が、フェルドウスィーの詩書『シャーナーメ』や、イスパハンのハムザという歴史家の950年の著作に登場する[16]。それによると、バフラム5世はインドのシャンガル王に使いを送り、リュートの演奏に巧みな男女1万人(あるいは1万2000人)をペルシアに呼び寄せた[16]。その子孫がロマではないかといわれている[16]。
また、ロマ出身のロマ語学者シャイプ・ユスフォフスキーによると、ロマの祖先はインドのラージャスターン州に住んでいたが、タタール人に追われたのと食料不足とで5世紀に1万2000人が故郷を捨てて旅に出た[17]。さらに10世紀にも西に集団移動し、バルカン半島に入ったという[17]。伊藤千尋はユスフォフスキーの説を「より真実味が深い」と評し、この説におけるタタール人を、中央アジアのイラン系遊牧民エフタル族(別名「白フン族」。5世紀半ばにインド北西部に侵入)と同定している[17]。
さらに、言語学の観点からロマの祖先は紀元前300年以前にイラン語地域に入ったと分析する説もある[7]。紀元前327年のアレクサンダー大王の北西インド侵入に伴ってロマの移動が始まったとする説もある[7]。
一方、現代のヨーロッパのロマはインドを10世紀以降に出発したと述べる言語学者もいる[7]。このため、ロマの起源は一様ではなく、長期間にわたり複数の集団が何度もインドを出発したとも考えられている[18]。
ヨーロッパ全土への拡散[ソースを編集]「ロマのディアスポラ(英語版)」も参照
11世紀にセルジュクトルコが勢いを伸ばすと小アジアのロマがバルカン半島に移り住み、ビザンチン帝国の支配下に入ってアツィンガノイと呼ばれた(ドイツ語でロマを指すツィゴイナーの語源)[19]。