またポランスキー自身も、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため、各地を転々と逃亡した。この体験がポランスキーの作品に深く影響を与えることとなった。 第二次世界大戦終結後にポーランドへ戻り、生き延びた父親と再会した。その後は映画に興味を持ち、ウッチ映画大学で学んだ後、冷戦下の1950年代にポーランドで俳優として活動を始める。いくつかのポーランド映画に出演後、自由な表現活動を求めてフランスに移った。 1962年に『水の中のナイフ』で長編映画監督デビューを果たす。共産党一党独裁体制のポーランドでは黙殺されたが、ヨーロッパ諸国の民主国家では絶賛され、ポーランド作品初のアカデミー外国語映画賞への出品、及びノミネートも果たした。その評判に惹かれるように1963年にイギリスへ渡ると、その翌年に『反撥』でベルリン国際映画祭で審査員特別賞を受賞。更に翌年には『袋小路』でも同じくベルリン国際映画祭でグランプリにあたる金熊賞を受賞し、2年連続での受賞となった。その後、更なる活躍の場を求めてアメリカのヒューストンに移住し、ハリウッド映画『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)を監督。作品は大ヒットし、ポランスキーはハリウッドの寵児となる。 イギリスにて製作していた『吸血鬼』に出演した女優シャロン・テートと1968年に結婚する。しかし翌1969年8月9日、テートは友人らとロサンゼルスの自宅でパーティーの最中、チャールズ・マンソン率いるカルト教団に襲われ惨殺された。当時、テートはポランスキーの子を身ごもっており、妊娠8ヶ月だった。 ポランスキーはロンドンで映画の脚本執筆中に悲報を受け、急遽アメリカに帰国した。ロバート・エヴァンズの自伝『くたばれ!ハリウッド(原題The Kid Stays in the Picture)』によると、ポランスキーは憔悴しきっており、医師による鎮静剤の投与が必要だったという。この事件でポランスキーは、マスコミから根拠のない誹謗中傷を受けた。 しかも、この事件は人違い殺人であった。事件が起きた邸宅は、ポランスキー夫妻が借りる前は、ドリス・デイの息子でミュージシャンのテリー・メルチャーが居住していた。ミュージシャン志望だったマンソンがメルチャーを訪ねたが、プロへの道に繋がらず、その逆恨みが襲撃の動機であった。 事件当夜、スティーブ・マックイーン、パラマウントの重役だったロバート・エヴァンズ、ポランスキーの格闘技の師匠であったブルース・リーなどもパーティーに招かれていたが、行かなかったことで惨劇を免れた。 テートが殺害されたことにより、憔悴しきったポランスキーはアメリカからヨーロッパへ戻った。しかし、1974年、『チャイナタウン』の監督を依頼され、アメリカに帰国。脚本家のロバート・タウンと激しく対立しながらも、完成した映画は高評価を得て、アカデミー監督賞にノミネート。ゴールデングローブ賞 監督賞と英国アカデミー賞 監督賞を受賞した。1977年撮影 しかし1977年にジャック・ニコルソン邸で、当時13歳の子役モデルに性的行為(強姦・アナルセックス)をした嫌疑をかけられ逮捕。裁判では司法取引により、法定強姦での有罪判決を受ける。ポランスキーは一度は罪を認めたものの、後に無実を主張し「これは冤罪であり、少女とその母親による恐喝の対象になっていた」と述べている[5]。 ポランスキーは42日間の勾留後、釈放された。しかし、事件の担当判事がポランスキーを投獄後、国外追放にすることを示唆、再び収監する旨を地方検事と彼の弁護士に告げた。 ポランスキーは出廷を拒否。アメリカを捨てることを決意し、有効だったパスポートを手にロンドンへ逃亡、その後パリへと移住した。以後、アメリカへは一度も入国していない。しかし、この件はアメリカの司法当局に遺恨を残し、後のチューリッヒでの身柄拘束に繋がることとなる。 1978年にフランスに移り、市民権を取得した。1989年には女優のエマニュエル・セニエと再婚している(1993年に誕生した長女モルガン・ポランスキーは女優、1998年に誕生した長男エルヴィス・ポランスキーは俳優である)。1979年の作品『テス』で主演をつとめることになるナスターシャ・キンスキーとは、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいた[6][7]。
俳優
映画監督
シャロン・テートとの結婚と悲劇
事件後の復活と少女への淫行容疑
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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