シューマンの母ヨハンナは、外科医・軍医だったアブラハム・G・シュナーベルの長女として生まれ、彼女は短い詩を書いたり、ピアノで軽い旋律を弾いたりした[11][10]。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはモーツァルトのアリアをヨハンナに覚えさせたという[15]。
シューマンの友人でヴァイオリニストのヴァジェレフスキ(de:Wilhelm Joseph von Wasielewski, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。その他の伝記では、現実的な性格として描かれている[12]。イグナーツ・モシェレス(1794年 - 1870年)
シューマンは3歳から5歳の間、代母であるエレオノーレ・ルッピウス夫人のもとに預けられ養育された[16][注釈 3]。
両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の初等予備学校で学んだ[17][18][16]。
シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて感動している。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった[13][18]。さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でボヘミアのカールスバートに出かけ、イグナーツ・モシェレス(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった[19][20][18][注釈 4]。
また、この年にはライプツィヒで初めてのオペラ、モーツァルトの『魔笛』に接した。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している[18]。
ギムナジウム時代(1820年-1828年)シューマンの生家にある音楽室(現シューマン博物館)
1820年3月、シューマンは10歳でツヴィッカウのギムナジウムに入学した[18][21]。
シューマンにピアノを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である[13][18]。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた[17][18]。シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べている[17]。
クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらの管弦楽曲をピアノ連弾用に編曲して練習した[18]。