ロビン・ウィリアムス
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ウィリアムズには異母兄のロバート(愛称トッド)と[21]、異父兄のマクローリンがいる[22]。母はクリスチャン・サイエンスの信者だったが、ウィリアムズは父方の信仰である米国聖公会に従って育てられた[23][24]。2001年にテレビ番組『アクターズ・スタジオ・インタビュー』で行われたインタビューでウィリアムズは、自分のユーモアへ最初に大きな影響を与えたのは母で、母の気を惹くために彼女を笑わせようとしていたことを明かしている[25]

ウィリアムズはイリノイ州レイクフォレストの公立小学校(ゴートン小学校、英: Gorton Elementary School)、同じ学区の公立中学校ディア・パス中学校(英: Deer Path Junior High School)に通った[26]。高校で演劇部に入るまで、内気な性格を乗り越えられない静かな子どもだったと自ら振り返っている[27]。一方で友人たちからはとても面白い人物だったと言われている[26]。1963年遅く、ウィリアムズが12歳の時に、父がデトロイトへ転勤することになった。家族はミシガン州ブルームフィールドヒルズ郊外に引っ越して、20エーカー (8 ha)の敷地に40部屋もあるファームハウスに住み[18]、ウィリアムズ自身も私立のデトロイト・カントリー・デイ・スクール(英語版)に通った[26][28]。学業は優秀で、学校のレスリング部に入り、級長にも選ばれた[29]

両親共働きだったため、メイドがウィリアムズの養育を手伝い、このメイドは彼の1番の仲間にもなった。16歳で父が早期退職したため、一家はカリフォルニア州ティブロン(英語版)に移った[18][30][31]。転居に伴い、ウィリアムズはラークスパー近郊のレッドウッド高校(英語版)に転校した。1969年の卒業時、彼は同級生の投票で「1番成功しそうにない人」(Most Likely Not to Succeed) と「1番面白い人」(Funniest) に選ばれたという[32]。高校卒業後はクレアモントクレアモント・マッケナ大学に進んで政治学を専攻したが、演技の道を追い求めて中退した[18][33]。その後はケントフィールド(英語版)のコミュニティ・カレッジ、カレッジ・オブ・マリン(英語版)で演劇を3年学んだ。カレッジ・オブ・マリンの演劇学教授であるジェイムズ・ダンは、ミュージカルオリバー!』で演じたフェイギン役で、ウィリアムズの役者としての素質はすぐ明らかになったと回顧している。ウィリアムズは芝居中にしばしば即興劇を繰り出し、他のキャストが笑いを堪えられなくなることも多かったという[34]。ある日リハーサルが遅くまで続いた後、妻に電話したダンはウィリアムズが「何か特別なものになるだろう」と述べた[34]

1973年、ウィリアムズはニューヨークジュリアード音楽院の全額支給奨学金を得た(グループ6、1973 ? 1976年)。入学同期は20人で、この年ジョン・ハウスマンが教鞭を執るアドバンス・プログラムに合格したのはウィリアムズとクリストファー・リーヴの2人きりだった。ウィリアム・ハートマンディ・パティンキンもウィリアムズの同期である[35][36]。伝記作家のジーン・ドーシンヴィルによれば、ジュリアードではフランクリン・シールズ(英語版)とルームメイトだった[37]。リーヴはジュリアードの新入生として会ったウィリアムズの第一印象として、次のように述べている。「[ウィリアムズ]は絞り染めのシャツにトラックスーツのズボンを履いていて、早口に喋っていた。ひとりの人間があんなに沢山のエネルギーを秘めているなんて初めてだった。彼は膨らましてすぐに解き放たれた、縛られてない風船のようだった。彼がクラスの壁や廊下を実際に跳ね回るさまを、驚嘆の目で見つめていた。彼が『オン』だったと言っても控えめなくらいだろう」
"He wore tie-dyed shirts with tracksuit bottoms and talked a mile a minute. I'd never seen so much energy contained in one person. He was like an untied balloon that had been inflated and immediately released. I watched in awe as he virtually caromed off the walls of the classrooms and hallways. To say that he was 'on' would be a major understatement." ? クリストファー・リーヴ、Still Me[36](邦題『車椅子のヒーロー : あの名俳優クリストファー・リーブが綴る「障害」との闘い』)

ウィリアムズとリーヴはイーディス・スキナー(英: Edith Skinner)が教える方言のクラスに通った(リーヴはスキナーの発声・スピーチ指導は世界有数と述べている)。リーヴによれば、スキナーはウィリアムズ本人と、瞬時に異なるアクセントをいくつも披露できる彼の能力に当惑していたという。彼らの最初の演技教官はマイケル・カーン(英語版)で、カーンもまた「この人間ダイナモに等しく困惑していた」(equally baffled by this human dynamo)[36]。周囲は既にウィリアムズを面白い人物と評価していたが、カーンは彼のふざけた行為をただのスタンダップコメディだと批判した。後にウィリアムズはテネシー・ウィリアムズの『イグアナの夜(英語版)』で老人を演じ、批評家たちを黙らせた。リーヴはこの時に関して、「彼はただ老人『だった』。彼の仕事に驚嘆し、運命が我々を一緒にしてくれたことに大きな喜びを感じた」("He simply was the old man. I was astonished by his work and very grateful that fate had thrown us together.) と述べている[36]。ふたりはリーヴが2004年に亡くなるまで親友であり続け、ウィリアムズの息子ザックもふたりの友情は「別々の母から生まれた兄弟」(brothers from another mother) のようだったと語っている[38]

1974年から1976年の夏、ウィリアムズはサウサリートのレストラン「ザ・トライデント(英語版)」の給仕助手として働いた[39]。ウィリアムズは3年生になった1976年、ハウスマンの勧めでジュリアードを去ることになるが[40][41]、これはジュリアードでウィリアムズに教えるものは最早ないというハウスマンの判断によるものだった[35][42]。ジュリアードで教えたジェラルド・フリードマン(英語版)は、ウィリアムズは「天才」(genius) であり、学校の保守的・古典的な指導方法は彼に合っていなかったので、彼の退学に驚いた人はいなかったと述べている[43]
キャリア
1976?1983年:スタンダップコメディと『モーク&ミンディ』


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