ロバート・E・ハワード
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ロバート・E・ハワード
1934年のハワード
誕生Robert Ervin Howard
(1906-01-22) 1906年1月22日
アメリカ合衆国
テキサス州 ピースター
死没1936年6月11日(1936-06-11)(30歳没)
アメリカ合衆国
テキサス州 クロスプレインズ
職業短編作家、詩人、小説家
ジャンル剣と魔法、西部劇ボクシング小説、歴史小説ホラー小説
文学活動ウィアード・テイルズ、剣と魔法
代表作『英雄コナン』シリーズ、「ソロモン・ケーン」シリーズ、『龍の刻』、大地の妖蛆鳩は地獄から来る
影響を受けたもの

プルタルコスエドガー・ライス・バローズラファエル・サバチニ聖書ラドヤード・キップリング トマス・ブルフィンチサックス・ローマーアーサー・コナン・ドイルナサニエル・ホーソーン, ジャック・ロンドンハロルド・ラムヘンリー・ライダー・ハガードアレクサンドル・デュマ・ペールクラーク・アシュトン・スミスハワード・フィリップス・ラヴクラフトギルバート・ケイス・チェスタートンアーサー・マッケン

影響を与えたもの

ポール・アンダースンリイ・ブラケットラムジー・キャンベルL・スプレイグ・ディ・キャンプリン・カーターデヴィッド・ドレイク、Steven Erikson、David Gemmell、Laurell K. Hamilton、ジョン・ジェイクス、Paul Kearney、William King、ヘンリー・カットナーフリッツ・ライバーリチャード・A・ルポフジョージ・R・R・マーティン、Brian McNaughton、マイケル・ムアコックC・L・ムーア、Andrew J. Offutt、Emil Petaja、James Reasoner、Charles R. Saunders、Dave Sim、S. M. Stirling、Matthew Stover、Richard L. Tierney、ハリイ・タートルダヴカール・エドワード・ワグナー、Robert Weinberg、J・R・R・トールキン

署名
ウィキポータル 文学
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ロバート・アーヴィン・ハワード(Robert Ervin Howard、1906年1月22日 - 1936年6月11日)は、アメリカ合衆国パルプ・フィクション作家。

怪奇幻想小説とアクションヒーローものを融合したヒロイック・ファンタジーの生みの親で、「英雄コナン」シリーズが有名である[1]。この「コナン」は大恐慌時代パルプ・マガジンウィアード・テイルズ』誌上で活躍したキャラクターであり、その文化的影響力はターザンドラキュラ伯爵シャーロック・ホームズバットマンジェームズ・ボンドと肩を並べるものとされている。このシリーズの作品群は多くの模倣を呼び、ファンタジージャンルに多大な影響を及ぼした。

また、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトとは文通相手であり、『黒の碑』などのクトゥルフ神話作品も執筆していた[1]ほか、ラヴクラフトもハワードの創造した世界に対する言及を自作内で行っている。オーガスト・ダーレスクラーク・アシュトン・スミスらとの親交も厚かった。ハワードの創造した文献「無名祭祀書」は、後続のクトゥルフ神話作家達も使用することになる[1]

友人のO・A・クラインはSF作家であったが、ハワードの著作権エージェントとしての職に集中するため執筆活動を休止した。
経歴

テキサス州出身。生涯のほとんどをダラス郊外のクロスプレインズと、時にその近郊のブラウンウッドで過ごした。本好きで知的な子供であったが、同時にボクシングのファンでもあったため、10代の後半にボディビルを始め、逞しい青年になる。

9歳の時より冒険小説作家となることを夢見たが、23歳までは本当の成功には恵まれなかった。以降30歳で自殺によって死去するまでハワードの作品は様々な雑誌、ジャーナル、新聞に載るようになり、いくつかのジャンルで成功を収めた。

1924年、怪奇小説専門のパルプ・マガジンウィアード・テイルズ』に "Spear and Fang" が売れ、翌1925年にデビューする。以後さまざまなパルプ・マガジンに発表した。1932年に「英雄コナン」シリーズの第1作「不死鳥の剣」("The Phoenix on the Sword)がWT誌に掲載される。約11年間の作家活動で執筆した作品数は300を超えるも、半数以上が未発表であり、生前には単行本が一冊も刊行されなかった[2]。コナン作品は1934年に単行本化される寸前まで行ったものの頓挫している。

その作品内容はヒロイック・ファンタジー、幻想怪奇小説から、冒険小説ハードボイルド、歴史冒険小説、西部劇スラップスティック小説まで、非常な広範囲に及ぶ。これには、当時のパルプ誌が雑誌・ジャンルを問わず経営が不安定で原稿料の支払いも不安定だったため、雑誌・ジャンルを選ばずにどこにでも売り込まねばならなかったという事情があった。とはいえ、11年間の作家生活で年間の収入は50ドルから2,000ドル以上まで上昇。当時のクロスプレインズでは町で随一の高収入であった[3]。1936年の時点では彼の作品のほぼ全ては西部劇ものとなっていた。

ロバート・E・ハワードの作家収入西暦年齢収入インフレ
補正[4]備考
1926年20歳$50.00$861
1927年21歳$37.50$658
1928年22歳$186.00$3,300「ソロモン・ケーン」シリーズ第1作
1929年23歳$772.50$13,707「キング・カル」シリーズ・「Steve Costigan」シリーズ第1作


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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