ロバート・A・ハインライン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

カンザスシティで育つ[5]。この時代のこの地方の価値観(ハインラインはバイブル・ベルトと呼んだ)が作品に強く影響しており、特に晩年の『愛に時間を』や『落日の彼方に向けて』の設定や雰囲気に反映されている。しかし、最盛期の作品ではそういった価値観や道徳観を打破しようとする傾向があった。
海軍時代

軍隊もハインラインに大きな影響を与えた。生涯を通じて忠誠心、リーダーシップといった理想を信じたのも軍隊の影響である。1925年アナポリス海軍兵学校に入学。1929年に卒業するとアメリカ海軍の士官となった。1931年、空母レキシントン (CV-2) に乗る。このころ無線通信に取り組み、さらに実用化されたばかりの航空機にも取り組んだ。当時の艦長アーネスト・キングは、第二次世界大戦期にはアメリカ海軍作戦部長になっている。後にハインラインはアメリカ海軍初の現代的空母の艦長だったアーネスト・キングについて、軍事史家から頻繁にインタビューを受けている。1933年から1934年まで駆逐艦 USS Roper (DD-147) に勤務。その間に中尉に昇進している。兄弟のローレンス・ハインラインは陸軍、空軍、ミズーリ州軍に勤務し、少将となっている[6]

1929年、カンザスシティ出身の女性とロサンゼルスで結婚[7]。しかし、1年で破局した[4]。1932年には2度目の結婚をしている。このときの相手は政治的に過激な思想を持っており、アイザック・アシモフによればこのころのハインラインは妻に影響され「激しい自由主義者」だったと記している[8]
カリフォルニアへ

1934年結核を患い、海軍を退役。長い入院生活の中でウォーターベッドを思いつき、後にそれについて詳細に小説に書いている。このため、ハインラインの小説が先例となって、ウォーターベッドの特許は成立しなかった[9]

その後UCLA大学院数学を学んだが、数週間で退学。再び病気が悪化したという理由もあるが、政治家を目指したからでもある[10]

ハインラインは不動産販売のセールスマンや銀鉱の作業員などの職を転々としたが、その間ずっと困窮していた。この頃のハインラインは社会主義者のアプトン・シンクレアの活動に参加していた。1934年のカリフォルニア州知事選ではシンクレアが民主党の推薦を受けて立候補したため、熱心に選挙活動を行った。1938年にはカリフォルニア州議会議員選挙に自ら立候補したが、落選した[注釈 1]。1954年のノンフィクションでハインラインは「多くのアメリカ人は…マッカーシーが「恐怖の時代」を生み出したと声を大にして断言していました。あなたは恐れていますか? 私はそういうことはなく、マッカーシー上院議員よりも左よりの立場で政治活動していた経験があります」と書いている[11]L・スプレイグ・ディ・キャンプ(中央)、アイザック・アシモフ(右)と共にフィラデルフィア海軍造船所に勤務するロバート・A・ハインライン(左)1944年
作家になる

選挙後はそれほど貧困だったわけではないが(海軍から少額ながら障害年金を受け取っていた)、ハインラインは借金を清算するために小説を書き始め、1939年にアスタウンディング誌にて「生命線」でデビューした。その後すぐさま社会派SFの旗手として認識されるようになった。デンバーで開催された1941年のワールドコンではゲストとして招待されている。第二次世界大戦中、1943年から技術士官(航空工学)として海軍に復帰。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:112 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef