ロバート・マクナマラ
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1960年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワーより国防政策の能力に欠けているとされていた。ケネディはエスタブリッシュメントの重鎮であるロバート・ロベットに主要閣僚への就任を要請した。ロベットは健康状態を理由にこれを辞退し、マクナマラを国防長官に推薦した。ケネディは義弟のサージェント・シュライバー(英語版)を介して、社長就任から5週間しか経過していないマクナマラとコンタクトを取った。当初マクナマラは「自分は第2次世界大戦後の軍事事情に詳しくないので、国防長官は勤まらない」と要請を断ったが、ケネディは「大統領になるための学校だってない。けれどもアイゼンハワー大統領と会ったら、自分にも出来ると自信を持てた」と答え、マクナマラはワシントンの社交界に出入りしなくてよいこと、自分の部下は自分で選ぶことを条件として国防長官就任を受諾した。マクナマラは国防に関する最新知識をあまり持ち合わせていなかったが、直ぐにそれらの勉強を始め、自身の役割を把握し積極的な活動を始めた。

1961年3月28日に行われたケネディ大統領の議会への最初の一般教書演説において、マクナマラは国防政策の改革を盛り込むように提案した。その骨子は、十分な戦略兵器を配備することでアメリカおよび同盟国への核攻撃を思いとどまらせ、先制攻撃も辞さないとした。ケネディはそれを拒否し、アメリカ軍は文民統制下に常に置かれるべきで、国防体制は不合理な戦争や偶発的戦争の勃発の危険性を減らす方向で行かなければならないと考えていた。

1962年10月に起きたキューバ危機において、マクナマラはジョン・マコーンCIA長官マックスウェル・テイラー統合参謀本部議長ら強硬派と共にキューバへの先制攻撃(キューバ内のミサイル基地の破壊・キューバへの空襲・それに伴うキューバへの上陸の実施)を唱えていた一方で、キューバ周辺の公海上の封鎖とキューバに向かうソビエト連邦の船舶の海上査察を提案し(後に海上査察という言葉はソ連との戦闘状態に突入していなかったので、海上臨検に置き換えられた)、これはケネディ大統領の承認を受けた。これは10月24日に実行に移され、ソビエト連邦の船舶との戦闘状態を起こす事無く海上封鎖と臨検に成功した。また彼以上に強硬論を唱えるカーチス・ルメイ空軍参謀総長、ジョージ・アンダーソン・ジュニア(英語版)海軍作戦部長らを抑える事にも尽力した。
対共産陣営とベトナム戦争

ケネディ政権は共産陣営の「民族解放戦争」に対して正面からの戦争は避けつつも、政権転覆やゲリラ戦術に訴えて対抗していくことを前面に押し出した。1962年の年次報告でマクナマラは、「軍事面の強化では狙撃・待伏せ・強襲の戦闘力強化。政治面では恐怖感・強奪・暗殺」と述べた。

実際にアメリカ軍にこれらの訓練を積んだ特殊部隊を増強し、当時混迷を増していた南ベトナムには、「軍事顧問団」と称するアメリカ軍の部隊の増強を続けた。また、ベルリン危機(英語版)の1961年から通常兵力の増強も行い、1961年に280万8000人だった兵力を、辞任時の1968年には、355万人までに増やしているなど、ベトナム戦争の拡大に一役を買った。
核戦略

彼の核政策の要は、いかにNATOを核の脅威から守るかであった。マクナマラの目的は西側のアメリカ合衆国の同盟国への核攻撃がアメリカからソ連への報復攻撃に繋がることをモスクワに確信させることにあり、ソビエト連邦が都市への核攻撃をできないようにする施策を望んでいた。彼はアナーバーでのスピーチで、「大規模な攻撃が行われても直ぐに報復可能な核備蓄を行うべきである」と述べた。

マクナマラはこの戦略を実現するため、兵器と補給システムの革新と拡張を促進した。また、1966年までに当時旧型のタイタンIアトラスミサイルを廃止し、後継の大陸間弾道ミサイル(ICBM)ミニットマン潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)ポラリスの配備を加速した。マクナマラ在任中、54基のタイタンIIと1,000基のミニットマンを陸上配備し、また41隻の原子力潜水艦に656基のポラリス配備を行った。

1965年に相互確証破壊(MAD)の考えを打ち出した。
国防省の改革・核戦略の転換など

彼は、アイゼンハワー政権の核戦略を転換させた。前政権は大量核報復戦略を当然とするアーサー・ラドフォード海軍大将やカーチス・ルメイ空軍大将などが動かしていた。それに密かに反対していたマクスウェル・D・テイラー陸軍大将を統合参謀本部議長にして、より穏健な立場に立ち、軍部を掌握した聡明な文官としての地位を確立した。民主党勝利の大きな理由であった「ミサイル・ギャップ(ミサイルでアメリカはソ連に負けているという説)」は存在しないと国防長官就任直後に発言し物議を醸したように、彼は単純な核兵器拡張論者では無い。当時前線司令官に一部任されていた核使用権限を大統領に集中し、文官側によるより柔軟で広範な判断をできる仕組みを作り上げた。

国防省に国防情報局を設置して3軍の情報を集中し、国防長官に情報が集まるようにした。また、国際安全保障局で文官側の判断が独自に出来るようにし、システム分析局で情勢や装備の文官側の判断が出来るようにした。またヨーロッパ諸国の国防省に文官組織を作り、軍部が独走しないようにした。
PPBS「en:Output budgeting」も参照

マクナマラはシステム分析の手法を広く導入した。

システム分析導入の顕著な例は、PPBS(Planning, Programming, and Budgeting System/効用計算予算運用法)である。国防省の監査役のチャーリーズ・J・ヒッチとマクナマラは、国防に必要な要素を統計的に分析し、長期的かつ計画された国防予算の立案を行った。PPBSはマクナマラの管理手法の中心に据えられた。PPBSの基本的な考え方は以下の通りである。

防衛システムの課題を国家としての必要性と妥当性から解決手段を分析する。

軍事面の必要性とコストの分析を行う。

政策決定に分析スタッフを積極的に活用する。

軍事力とコストの両面からの軍備計画立案

データ及び分析結果を公開する。

マクナマラは費用対効果の面で、B-52爆撃機の後継機として開発中であったXB-70の開発を中止した。彼は、費用・効果・速度の面で、有人爆撃機は弾道ミサイルに及ばないと結論付けていた。有人爆撃機は操縦士のその場の判断による臨機応変の行動・柔軟な行動が可能という、ミサイルには無い利点を持っており、マクナマラの意見は一般論としては全面的に正解とは言えない。ただしXB-70に限って言えば、予めプログラムされた飛行コースしか飛べないこの機体は、有人爆撃機の弾道ミサイルに対する利点である柔軟性に欠けており、開発中止は正解であったと言える。

同様にマクナマラは空中発射弾道ミサイルスカイボルト(GAM-87)計画を1962年末に中止した。マクナマラは、スカイボルトが費用の割に十分な精度を持たず、しかも開発は遅延するだろうと判断していた。
F-111の失敗

さらにマクナマラは、空軍のTFX(Tactical Fighter Experimental) 計画と海軍のFADF(Fleet Air Defence Fighter) 計画を強引にひとつの計画に統合してしまった。TFX計画は空軍の次期主力戦闘爆撃機、FADF計画は海軍の艦隊防空戦闘機の開発計画であり、空軍海軍両者とも要求仕様が全く異なるとして反対したのであるが、マクナマラは強引に計画を進めた。その結果完成したF-111航空母艦での使用が不可能な大型機となってしまった。F-111の艦上機型は空母への発着艦試験には成功したものの、艦隊防空用としての運用に耐えられたかは疑問であり、この点で無理な統合であったことは明白である。そのためF-111は結局空軍機としてしか採用できず、無惨な失敗となって終わった。その後改めて海軍の艦隊防空戦闘機として開発されたF-14戦闘機は、専用の機体として開発された事でF-111よりも小型軽量化されている。前線を知らず、机上だけでの効率化を推し進めたマクナマラの失敗の一例である。

しかしながら、F-111は戦闘爆撃機を名乗りながらも、戦闘機として運用するには大型機となってしまい、純然たる爆撃機としてしか使用できなかった。そのため海軍機としてのみならず、空軍機としても当初の開発目的を達成できなかった。従ってこの機体の開発失敗は、元来の空軍の戦闘爆撃機としての要求仕様にも問題があり、マクナマラだけに失敗の責任を求める事はできない。軍人任せにするとコスト意識が希薄になったり、アフォーダビリテイ観念の欠落により必要数が揃わなくなりがちな軍事組織において、既に膨張し始めていた戦闘機の開発費用と調達コストを空軍・海軍共同開発によって削減・抑制しようとしたコンセプト自体は決して間違っていたとは言えない。

なお、元々海軍の艦上機として設計開発されたF-4 ファントムIIを、空軍にもF-105 サンダーチーフの代替機として採用させた事は、結果論ではあるが成功となっている。
国防予算問題

マクナマラのスタッフは、兵器開発及び他の国防予算問題での分析や意思決定支援を行った。スタッフは、アメリカには国防に必要な予算を回す余力はあるが、その余力を国防費に無駄に費やすことは許さず、費用対効果を厳密に分析する必要があると信じていた。マクナマラはこれを受けて、予算削減案を提出した。1961年の就任からの5年間で、140億ドルの削減に成功したと報告している。国防予算削減は、議会からの激しい批判を受けるも、マクナマラは更に不要な軍事基地の閉鎖を断行した。

そのような予算削減にも拘わらず、マクナマラの任期中に国防費はケネディ政権下で始まったベトナム戦争のため増加した。1962年の国防費は495億ドルであったが、辞任する1968年には749億ドルまで増大した。マクナマラは、ケネディ政権とジョンソン政権で発生した国家安全保障上の重大な危機で大きな役割を果たした。


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