1916年6月9日にカリフォルニア州サンフランシスコに誕生する。父は靴の卸会社の販売マネージャーだった。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を専攻し、1937年に卒業した。副専攻として数学と哲学も学ぶ。卒業後に1939年にハーバード大学のビジネススクールでMBAを取得した。
サンフランシスコのプライス・ウォーターハウス社で会計士として働いたが、1940年8月にハーバード大学へ戻り、ビジネススクールで教鞭を執る。大学では企業経営に用いるアナリティカル・アプローチを陸軍航空隊の士官に教えた。 第二次世界大戦が勃発した後、1943年にアメリカ陸軍航空軍へ入隊し、統計管理局で戦略爆撃の解析および立案の仕事に従事した。1945年にヨーロッパにおけるドイツの敗北が決定的になると、陸軍航空軍はヨーロッパ戦線で余っていた爆撃機のボーイングB-17を極東に転用し、日本への戦略爆撃に使用しようとした。 チャールズ・B・ソーントンを指揮官とするマクナマラら統計管理局の若手将校たちは、統計学を用いて徹底的に分析し、B-17を廃棄して新型の大型爆撃機のボーイングB-29を大量生産し、対日戦に投入する方がコスト面で効率的であると主張した。彼らの意見は採用され、B-29を1944年末から開始された対日戦略爆撃に大量投入することで、大きな戦果を上げる。 しかし東京大空襲をはじめとする日本の諸都市への一連の無差別爆撃に対する倫理性については、上官であるカーチス・ルメイに抗議しており、後の映画などのインタビューでも後悔の念を語っている。3年間の軍役の後に中佐として1946年に除隊した。 第二次世界大戦後、ソーントンは統計管理局で共に働いた優秀な若手将校たちをまとめてビジネス界に売り込もうと考えた。ソーントンは当時ゼネラルモーターズに対して不利な立場に立たされていたフォード・モーターへチームを売り込み、マクナマラらは最高経営幹部候補生として採用された。 後に「ウィズ・キッズ(Whiz Kids/ 神童)」として知られるようになる彼らは、当時のアメリカの大企業では普通になっていた大学卒が経営陣にわずか10パーセントしかおらず、非効率がまかり通っていたフォードを大胆なリストラと不採算工場の閉鎖でコストを大幅に削減して効率性を高め、ヘンリー・フォード時代からの伝統に縛られた経営悪化に苦しむフォードを一変させ利益を拡大させた。 フォード時代の1950年代には「エドセル」投入という歴史に残る大失敗に関与したものの、その後はフォードの小型車第1号である「ファルコン 1960年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワーより国防政策の能力に欠けているとされていた。ケネディはエスタブリッシュメントの重鎮であるロバート・ロベットに主要閣僚への就任を要請した。
陸軍時代
ウィズ・キッズ
国防長官時代マクナマラとケネディ