ロバート・ピール
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第2代準男爵サー・ロバート・ピール(: Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS1788年2月5日 - 1850年7月2日)は、イギリス政治家

ウェリントン公爵が党首を退いた後の保守党を指導し、首相を2度にわたって務めた(1834年 - 1835年1841年 - 1846年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけてホイッグ党党首メルバーン子爵と政権を奪い合った。

保守党の政治家ながらに自由主義的な人物であり、穀物法廃止をめぐって保守党が分裂した後は自由貿易を奉じるピール派を旗揚げした。
概要

イギリス最大の紡績工場の工場主の息子として生まれる。パブリックスクールハーロー校に入学し、そこからオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する。

1809年トーリー党(後の保守党)の庶民院議員に初当選した。1812年から1818年までリヴァプール伯爵内閣のアイルランド担当大臣(英語版)を務める。1819年には金本位制再導入を検討する委員会の委員長となり、金本位制への移行に主導的役割を果たした。1821年内務大臣としてリヴァプール内閣に再入閣し、刑法の厳罰主義を改めるなど自由主義的な内政改革を行った。

続くジョージ・カニング内閣にはカトリック解放反対の立場からウェリントン公爵らとともに入閣を拒否した。1828年にウェリントン公爵内閣が成立するとその内務大臣兼庶民院院内総務として入閣。アイルランド・カトリックが当選するなど情勢の変化に応じてカトリック議員を認める改革を行い、また首都警察法(英語版)の制定を主導して近代イギリス警察の基礎を築いた。

1830年に成立したホイッグ党政権グレイ伯爵内閣が推し進める第1次選挙法改正に反対したが、阻止することはできなかった。

1834年にグレイ伯爵の後継首相メルバーン子爵が国王ウィリアム4世に罷免されたことで保守党が政権を奪還して第1次ピール内閣を組閣した。しかし野党勢力の団結が強まる中、1835年にはアイルランド国教会の教会税転用問題をめぐる採決に敗れて総辞職することとなった。

代わって成立した第2次メルバーン子爵内閣に対しては初め「ヴィクトリア朝の妥協」と呼ばれる協力的野党の立場で臨んだが、スタンリー卿(後のダービー伯爵)の派閥が保守党に合流すると政権に対する攻勢を強め、1839年にはメルバーン子爵を辞任に追いやった。しかしヴィクトリア女王と寝室女官人事をめぐって争ったため、この時には組閣できず、メルバーン子爵政権が継続されることになった(寝室女官事件)。

1841年の解散総選挙(英語版)に勝利し、議会でメルバーン子爵を敗北させて総辞職に追い込んだ。この頃には夫アルバート公子の影響で女王からも高く評価されるようになっており、問題なく第2次ピール内閣(英語版)を成立させることができた。

ウィリアム・グラッドストンを片腕に自由貿易を推進した。またピール銀行条例を制定し、銀行券の流通量のコントロールを強化した。1846年にはアイルランドでジャガイモ飢饉が発生したことを受けて穀物法を廃止して穀物の自由貿易へ移行しようとしたが、ベンジャミン・ディズレーリら党内の保護貿易主義者の激しい反発を受けた。穀物法廃止はなんとか実現するもディズレーリらの策動で内閣は総辞職に追い込まれた。

その後、保守党は分裂し、党内の自由貿易派を引き連れてピール派を結成した。その4年後の1850年に落馬の負傷がもとで死去した。
生涯
生い立ち

1788年ランカシャーベリーに生まれる[2]。父ロバート・ピール(英語版)は、産業革命初期のイギリスで最も巨大な紡績工場の経営者であり[2][3]1790年庶民院議員となり、1800年准男爵の称号を与えられた人物である[2]

ピールは長男であり、長弟にウィリアム・イェーツ(英語版)、次弟にジョナサン(英語版)がいる。また妹が2人おり、それぞれリッチモンド公爵、ヘンリー男爵(英語版)に嫁いでいる。

最上流の中産階級に生まれたピールは、名門パブリックスクールハーロー校に入学し、そこからオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学するという一流の貴族的教育を受けた[2]1808年に卒業試験を受けたが、当時のオックスフォードの卒業試験は数学と古典に分かれていた。ピールはその両方で首席の成績をとって卒業している[2][4]
庶民院議員に初当選

1809年、父が買収した腐敗選挙区のアイルランド・キャシェル選挙区(英語版)からトーリー党の候補者として出馬し、庶民院議員に初当選した[2]
リヴァプール伯爵内閣の閣僚若き日のロバート・ピール

1810年に陸軍・植民地省次官に就任。さらに1812年リヴァプール伯爵内閣が成立するとそのアイルランド担当大臣(英語版)として入閣した。アイルランド警察の創設や飢饉対策に尽力した。1818年までの6年にわたって在職した[5]

1817年秋頃から外国為替相場におけるポンドの低落と金価格高騰により、これまで部分的に行われていた正貨兌換を全面的に行うことを希望する者が増えた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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