ロバート・ジェンキンソン_(第2代リヴァプール伯爵)
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1801年から1804年にかけてヘンリー・アディントン内閣に外務大臣として入閣し[4][2]、フランス側とアミアンの和約の交渉にあたった[5]

1804年から1806年の第二次小ピット内閣では、内務大臣を務めた[2]1807年から1809年の第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクが首相となると内務大臣に再任し、1807年から1809年まで務めた[6][2]

1808年12月に父の死によりリヴァプール伯爵位を継承した[7]

1809年から1812年スペンサー・パーシヴァル内閣では陸軍・植民地大臣に就任[2]
首相として

1812年5月にスペンサー・パーシヴァル首相が暗殺されると、トーリー党政権継続を望む摂政皇太子ジョージの意向で組閣の大命を受け、首相に就任した[8][9]。以降15年の長期に渡って政権を担当する[8]ロバート・ウォルポール(1721年 - 1742年)や小ピット(1783年 - 1801年)に次ぐ長い首相在任期間を誇った。

政権前半、ナポレオン戦争においてナポレオンと戦い、半島戦争ではビトリアの戦いで勝利し、その後フランスへ侵攻してトゥールーズの戦い、ワーテルローの戦いで勝利し、フランスの敗北を持って終結した。リヴァプール伯爵内閣は外相カースルレー子爵の主導のもと、その戦後処理にあたり、ウィーン議定書ではロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国とともにフランス監視を目的とする「四国同盟」を締結したが、ロシア皇帝主導の「神聖同盟」への参加は避けた[10]。アメリカ大陸では1812年に英米戦争が勃発し、連邦議会やホワイトハウスを焼き討ちにするといった成果はあったものの、開戦から2年後にガン条約で講和、1818年の英米条約(1818年条約)で国境を定めてアメリカとの大陸は一旦終了した。

ナポレオン戦争後は1816年に所得税を廃止、同年硬貨法を制定して通貨の安定に努めた。1821年には金本位制を導入して、かつてのように金兌換をできるようにした。アジア方面では、1813年特許法で東インド会社のインド貿易独占権を廃止した。(ただし東インド会社の商業活動は1833年特許法が制定されるまで続いた)。そのまた東では1816年にアマーストが清を訪れ、1819年にシンガポールを植民地にし、1826年に海峡植民地を設置、同年シャム王国とバーニー条約を締結し、交易を開始した。
政権に対する不満

イギリス農業はナポレオン戦争中、ナポレオンの大陸封鎖令によって結果的に保護された状態になっていたため、戦争終結とともに農業不況に陥った。そこでリヴァプール伯爵内閣は1815年に穀物法を制定して国内農業の保護にあたった。しかし穀物法は労働者層の生活費上昇を伴うため、地主以外からは批判された。また戦争終結で復員した者たちが失業者となり、社会不安が高まっていた[11]

そうした中で労働者運動が徐々に勃興するようになったが、これに対してリヴァプール伯爵内閣は徹底弾圧の姿勢で臨んだ。1816年にはイーリー・リトルポート暴動が発生し、ロンドンではスパ・フィールズ暴動が起きて、翌年に摂政のジョージ皇子が襲撃されるという事件が起きたため人身保護法が一年間停止された。しかし、人身保護法の停止に人々はブランケットの大行進で抗議した。1819年8月16日にはマンチェスターのセント・ピーターズ広場で開かれていた労働者階級の集会に治安判事の命令を受けた騎兵部隊が突撃をかけ、十数人が死亡、数百人が負傷するという惨事が発生したが(ウォータールーの戦いになぞらえて「ピータールーの虐殺」と呼ばれた)、リヴァプール伯爵はこの事件について詳しく調査することもなく、治安判事や軍による虐殺を擁護し、さらに集会やデモを禁止する「治安六法」を制定し、労働者集会の弾圧を一層徹底させた[12][13]。1820年に閣僚の暗殺を計画していたカトー・ストレートの陰謀が発覚した。

政権への批判に加えて1820年に国王に即位したジョージ4世と王妃キャロラインの離婚訴訟の件で国王が離婚法案の提出をし、内閣もそれを支持したが、王妃は国民から人気があったため、リヴァプール政権は国民から強い批判に晒された[14]。与党内でもこれに反対する動きがあったため結局離婚法案は廃案となった。ジョージ4世は代わりに野党のホイッグ党に組閣させようとしたが、国王はすでに野党からもよく思われてなかったため、これを断念した。これは国王が思いのままに首相を組閣できなくなったのが露呈した一件だった。
自由主義的傾向

1822年頃を境に反動的状況が変化した。1822年に外相となったジョージ・カニング、同年に内務大臣となったロバート・ピール、1823年財務大臣となったフレデリック・ロビンソン、同年商務庁長官となったウィリアム・ハスキソンらはトーリー党内自由主義派とも言うべき人材だった。1824年には労働者弾圧を推し進めた保守派の代表格だった初代シドマス子爵ヘンリー・アディントンが引退し、やはりトーリー自由主義的なロバート・ピールがトーリー党の中心となった。[15][13][16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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