その結果ハーバード大学ロースクールに入ることができず、その代わり1951年6月にヴァージニア大学ロースクールから法学士(L.L.B.)を受け、1952年11月に兄のジョンの上院議員選挙戦のマネージャーを務めた。 その後、上院議員であるジョセフ・マッカーシーによって運営され、隠れ共産党員摘発(赤狩り=マッカーシズム)の拠点となった上院政府活動委員会常設調査小委員会(PSI)の下級法律顧問に就任した。続いて、上院労働福祉委員会に設置された労働搾取問題を調査する小委員会「マクレラン委員会」の法律顧問となった。1956年以降はマフィアとの癒着嫌疑があったチームスター組合 アメリカン証券取引所のスキャンダル(1961年)を捜査しながら、IGケミーと民事紛争で和解した。 1961年1月、大統領となった兄のジョンはロバートを司法長官に指名し、彼の努力に報いた。ケネディ政権中のロバートは諮問に答える重要な役割を果たして組織犯罪の撲滅に尽力し、また大労働組合などでの不正を徹底的に追及した。兄弟が直面した重要問題の中には、1961年4月のキューバでのピッグス湾事件・1962年10月に発生したキューバ危機・1965年11月のベトナム戦争における軍事行動の段階的拡大と、公民権運動の拡大・報復的暴力が挙げられる。FBIがキング牧師を盗聴する許可を司法長官に要求したことは確実であるが、ロバートがジョン・エドガー・フーヴァーに対してその許可を与えたかは定かでない。 ロバートはアメリカの法執行者として最高の地位についてから、FBI長官であるフーヴァーが直接大統領に接近する権利を剥奪し自分に報告させたという。このことは、ワンマン的なフーヴァーを激怒させた。ケネディ大統領顧問を務めたセオドア・ソレンセンは、その著書の『Kennedy』において「フーヴァーがロバート・ケネディを嫌った理由は、ロバートが司法長官としての権限を行使して大統領とフーヴァーとの間に立ちはだかった初めての人物だったからだ」と述べている。 任期中に発生したピッグス湾事件およびキューバ危機は、アメリカのみならず世界の情勢を左右しかねない重大な危機であったが、兄と共に対処して最悪の事態の回避に尽力した。 ロバートは当時アメリカで大きな問題となりつつあった人種問題にも積極的に関与した。1950年代から1960年代にかけては公民権運動が最高潮に達していたが、それに対抗する勢力も拡大しつつあった。その1つにジョージ・リンカーン・ロックウェルの率いるアメリカ・ナチ党があった。ロバートはロックウェルを陰謀罪で逮捕・起訴したが有罪判決には至らず失敗した。 1962年9月、黒人学生のジェームズ・メレディスがミシシッピ大学に人種を理由に入学拒否される、いわゆるメレディス事件
上院法律顧問時代
ケネディ政権
司法長官ホワイトハウスに立つロバート(左)、エドワード(中)、ジョン(右)
人種問題への対処キング牧師(左)とケネディ