1865年まではソールズベリー侯爵家のヤンガーサンとして卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、侯爵家の嫡男となった1865年から爵位を継承する1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた[注釈 1]。本項でもそれに従うものとする。 ハットフィールド
概要
1866年に成立した保守党党首ダービー伯爵の第三次内閣にインド担当大臣として入閣したが、首相ダービー伯爵や保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが推し進めようとした第二次選挙法改正に反対して、すぐに辞任した(→第三次ダービー伯爵内閣インド担当相)。1868年にダービー伯爵が病気で引退し、ディズレーリが首相・保守党党首職を継ぐが、彼は1874年まで保守党内で反ディズレーリ派の立場を取り続けた(→反ディズレーリ派として)。
1868年に父の死でソールズベリー侯爵位を継承し、庶民院から貴族院へ移った。
1874年に成立した第二次ディズレーリ内閣にインド担当相として入閣することでディズレーリと和解。ランカシャー綿産業の利害を代表してインドの関税を廃止させ、またロシア帝国の南下政策をにらんでアフガニスタンに強硬姿勢をとるようインド総督に訓令した。ベンガル大飢饉に際してはベンガルからの穀物輸出制限の要請を拒否して批判を集めた(→インド担当大臣として)。バルカン半島をめぐって露土戦争が勃発した後、外相ダービー伯爵(元首相の息子)が対露開戦に反対して辞職するとその後任として外相に就任。各国との調整の実務にあたり、首相ディズレーリとともに参加したベルリン会議の成功に貢献した(→外務大臣として)。
ディズレーリ内閣は1880年の総選挙でウィリアム・グラッドストン率いる自由党に敗れて退陣し、ディズレーリはその翌年の1881年に死去した。以降保守党は1885年の政権奪還まで、貴族院保守党をソールズベリー侯爵、庶民院保守党をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという二党首体制をとったが、ノースコートの庶民院における権威が失墜したため、やがてソールズベリー侯爵が党全体の党首たる地位を固めていった(→貴族院保守党の指導者として)。
1885年にアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルと連携して第二次グラッドストン内閣を倒閣することに成功し、代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた。パーネルに配慮してアイルランド小作人に自作農への道を開くアシュバーン法(英語版)を制定したが、総選挙の敗北を経て、アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動いた結果、1886年1月には退陣に追い込まれた(→第一次ソールズベリー侯爵内閣)。