ロバート・オウエン
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^ いくつかの都市選挙区は工業化による人口移動で過疎化して2名の議員を数名の有権者から選出するポケット選挙区と化していた。そこでは接待や贈賄による買収で有権者の投票が左右される不正選挙の温床となっていった。急激に成長した工業都市は工業化以前は農村だった地域で州選挙区という扱いであった。土地を所有していない市民に選挙権はなく、土地を所有できた一握りの人々がわずか1名の議員を選出する状況下にあった。1830年代の危機的時代状況の中で貴族や地主層に対する中産階級と労働者階級の闘争は激しさを増し、ここに議会改革は不可避なものとなっていった。議会は世論を正確に代表する能力を失って国民に対する権威は失墜し、革命直前の社会状況にあった。
^ このときの改革では、都市選挙区に居住する10ポンド以上の家屋・店舗を占有する戸主、州選挙区に居住する10ポンド以上の長期(60年)自由土地保有者、50ポンド以上の短期(20年)自由土地保有者に選挙権が与えられ、議席再配分によって腐敗選挙区の廃止と工業都市への選挙区の割り振りが実施された。だが、労働者には選挙権は与えられず、改革は未解決のままに残され、議会改革問題はチャーティスト運動へと引き継がれる[102]。南部のロンドンからイングランド北部マンチャスターに連なる工業都市がチャーティスト運動の一大拠点となっていた[103]
^ 1831年ヘンリー・ヘザリントン(英語版)とウィリアム・ラヴェット(英語版)は「労働者階級全国同盟」(: National Union of the Working Classes) を結成、機関誌として『プア・マンズ・ガーディアン』(英語版)を発行した。かれらはフランスの『人権宣言』とトマス・ペインの思想を前文に掲げて綱領を発表した。まず、利潤や地代による収奪を批判して、労働全収権を提唱して労働者が労働生産物の全価値を享受する権利を訴えた。これと同時に雇用主の搾取に抵抗するための団結権ストライキ権の保証を求めていた。そして、その手段を議会改革の推進に求めた他、社会経済的な変革を要求して労働者階級の窮状を打破しようとした[112]。1836年の恐慌時、ヘザリントンとラヴェットをはじめロンドンの指導者は集会を開き、ロンドン労働者協会(英語版)を設立した[113]。執行部は声明を出して「イギリスには21歳以上の男子が602万いるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘、「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的にはワーキング・プア)の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。1838年、1)成人男子選挙権、2)秘密投票、3)毎年選ばれる一年任期の議会、4)議員に対する財産資格の廃止、5)議員への歳費支給、6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区の六項目を掲げた『人民憲章』が発表された[114][115]

出典^ 大門実紀史『ルールある経済って、なに?』、新日本出版社、2010年、101頁、ISBN 4406053476
^ 水村光男編 『世界史のための人名辞典』 山川出版社 1991年。 p.45
^ オウエン自叙伝 (1961) p.13
^ 世界の名著 42 (1980) p.20
^ オウエン自叙伝 (1961) pp.13-14
^ オウエン自叙伝 (1961) pp.15-16
^ オウエン自叙伝 (1961) pp.16-17
^ オウエン自叙伝 (1961) p.17
^ オウエン自叙伝 (1961) pp.18-19
^ オウエン自叙伝 (1961) p.20
^ オウエン自叙伝 (1961) p.22
^ オウエン自叙伝 (1961) pp.28-29
^ オウエン自叙伝 (1961) p.29
^ オウエン自叙伝 (1961) p.31

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