ロバート・オウエン
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地元のジェームズ・ダン青年と交友して各所を散策、自然観察の楽しみを享受することを覚えた[10]。従弟のリチャード・ウィリアムとはとりわけ仲が良く、一緒に遊んで過ごした。そのなかで、2人で草刈りの手伝いをしたことがあり、作業を通じて働くことの達成感とやりがいを感じたという[11]

母親とも愛情に満ちた日々を過ごしていた。しかし、1回だけ母アンの折檻を受けた記憶があるという。彼は母から呼びかけられたが、よく聞きもせず、「いいや」と生返事したという。それで母が立腹して叩かれたというが、ロバートによると充分に意図を理解しているが尋ねて叱ればよいのであって、一方的に怒り罰するのは理不尽だと感じたようだ。これにより、罰は罰する側にも罰せられる側にも有害であると考えるようになったという[12]
店員時代(1780-1789)

ロバートは温かい家庭に恵まれ、両親の寵愛を受けて育てられた。だが、この時代の子供の自立は早く、10歳で働き始めるのが普通であった。ニュータウンの隣家の店の手伝いを始めて幼い頃から働き始める。したがって、ロバートの教育レベルも初歩的な教育を受けて読書算ができる程度であった。以後の知的活動は全て独学の産物である。当然、ロバートもやがてはロンドンのような都会に出て働きたいと考えるようになった。10歳になったら家を出てロンドンに行き、当地でしかるべき親方のもとで奉公することを両親に伝え、その承諾を得ることになった[13]

ロバートは、父親の伝でリンカンシャーのスタムフォード(英語版)の高級リンネルの生地商ジェイムズ・マクガフォッグの商店で1年目は無給、2年目は8ポンド、3年目は10ポンドの契約で寝食付きの住み込み奉公を始めた。以降、経済的に親から独立して自力で生計を立てていった[14]。その後、夢に抱いていたロンドン行きを決意して、当時流行していた10セントストアのフリント・パーマー商会で働いた[15][16]

また、マンチェスターの呉服卸商店サタフィールド商店で働き始めて繊維業界での知識を蓄えていった。モスリン、キャンブリック、アイリシュ・リネン、レースなどの細糸織物の製作、品質評価(目利き)、取引、在庫管理、労務管理、経理、仕入れなど業務ノウハウを身につけていった。サタフィールド商店での経験が後の成功の礎となった[15][17]
実業家時代(1789-1799)
青年経営者への道発明家サミュエル・クロンプトン1779年に発明したミュール紡績機。

1789年、ロバートがサタフィールド商店で働いていた頃、婦人帽の針金部材の納品で商店に来る1人の職人ジョーン・ジョーンズという青年に出会った。そして、紡績機を購入して合資会社を設立して商売をしないか持ちかけられた。ロバートは兄ウィリアムから100ポンドを借りてミュール紡績機を購入して改良し、工場を借りて40人の職人を雇用して、紡績に着手した。だが、ジョーンは発明家を志していたものの経営については素人で、実際の仕入れ、在庫管理、労務など経営実務はすべてロバートがやっていた[18][19]。その後、ジョーンは他社からの提携話で会社を売却するが、以後ロバートが3台のミュール紡績機と3人の工員を引き受けて独立、アンコーツ・レインの工場で単身経営を担うことになった。ロバートの才覚と経営努力の結果会社は繁盛し始め、平均週6ポンドの利益を出すようになった[20][21]1835年の綿紡績工場の様子

こうした実業における成果は業界の有力者の目にも留まった。業界人ピーター・ドリンクウォーター(英語版)の工場ではジョージ・リーという有能な支配人が急に退社して支配人不在の状態になっていた。そこで、工場支配人を募集する広告を出していたのであるが、この広告をロバートの工員が見つけて彼に応募するように勧めたのである。こうして、ロバートはランカシャー随一の蒸気機関を動力とする最新設備を備えた紡績工場ピカディリー工場(英語版)の支配人として抜擢された。このときの起用は、ロバート自身が自力でも稼げると豪語したうえで強気と言える300ポンドもの破格の俸給を要求しての異例な取立てだった。1792年、早速これまで経営していた会社をドリンクウォーターに売却して成年男女小児合わせて500人の工員を雇用する巨大な近代化工場の支配人に着任した[21][22]

ロバートは朝一番に出勤して工場の鍵を開け、日々寡黙に働いて仕入れから製造、商品開発、在庫管理、労務管理、経理、取引をこなし、夜、最後に帰宅するという生活を続けた。製糸の技術改良に取り組み、繊度を高めて細糸を製作する技術を開発して最高120番手の製糸を達成し、翌年には300番手という極細糸を製造することに成功した[23]。また、仕入れでは品質に優れたアメリカ綿の輸入をいち早く決定して、原産地を変えて製造を試み、品質向上を実現した。やがて、アメリカ綿は国内需要の90パーセントを占めるようになる[24][25]

かくして、ロバートの製品は前任者リーの在庫品よりも歓迎され、この若手支配人は早々に失敗するだろうという周囲の予測を裏切り、大成功を挙げた。これに喜んだドリンクウォーターはロバートに破格の高給を与えて、2人の息子と合資会社を発足させる協定を提示した。ピカディリー糸は市場の好評を受けて生産能力の全てを挙げても追いつかないほどの人気商品となり、商品の包装にはロバートの名が印刷されることになった[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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