ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後のイギリス帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある(→人物・評価)。
生涯
生い立ち(英語版)に生まれる[1][2][3]。父は地主で後に庶民院議員も務めるロバート・ウォルポール(英語版)[4][5][3]。母はその夫人メアリー(旧姓バーウェル)[4][5]。夫妻は19人もの子供を儲けており、ウォルポールはそのうちの第5子・3男であった[4][2][6]。
ウォルポール家は爵位貴族でこそないが、13世紀まで系図を遡れる旧家であった[6]。
イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した[1][7]。跡継ぎになる前には父から聖職者になる事を望まれていたというが、大学在学中の1698年に長兄エドワードが急死し、次兄バーウェルもそれ以前の1690年に大同盟戦争におけるビーチー・ヘッドの海戦(英語版)で戦死していたため、急遽彼がウォルポール家の跡継ぎとなった。父の体調も悪化していたので、父の命令で地主業の勉強に専念すべくケンブリッジ大学を退学してホートンへ戻った[1][7]。
父の勧めで1700年7月30日に裕福な材木商人ジョン・ショーター(John Shorter)の娘キャサリン(英語版)と結婚したが、彼女は我がままであり、後にうまくいかなくなる[8]。同年11月18日に父が死去し、財産を相続した[1][9]。
政界入り直後の野党期(1701-1705)(英語版)から初当選し、ホイッグ党所属の庶民院議員となる。翌1702年7月にはキングス・リン選挙区(英語版)から選出され、以降40年にわたってこの選挙区の議席を維持する[3][1]。
1702年3月、ステュアート朝最後の君主アン女王が即位した。スペイン王位継承問題をめぐる英仏の対立や、フランスがアン女王の異母弟でジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード(ジャコバイトが擁立する王位僭称者)を真のイングランド王・スコットランド王と認定したことなどでイングランド国内の対仏気運が高まり、同年5月にも女王はフランスに宣戦布告した(スペイン継承戦争)[10]。女王はトーリー党中心の戦時体制を構築し、シドニー・ゴドルフィン(後の初代ゴドルフィン伯爵)が政治、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルが軍事、ロバート・ハーレー(後の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵)が庶民院を主導する三頭政治が展開された[11]。
庶民院入りしたばかりのウォルポールは、トーリー政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力でたちまち院内の主導的人物となった[3]。1705年1月にはトーリー右派が推し進めようとした官職法案の否決にホイッグを動員するうえで大きな貢献を果たしている[12]。
政府への参加(1705-1711)ウォルポールが敵対したトーリー政権首脳の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー(ジョナサン・リチャードソン画)。
1705年6月の総選挙(英語版)の結果、トーリーが267議席、ホイッグが246議席を獲得し、与野党の議席が伯仲化した。これによりアン女王はホイッグ政治家の一部を政府に登用する必要に迫られた[13]。
ホイッグの若きエースとして評判だったウォルポールは元海軍卿オーフォード伯爵エドワード・ラッセルと親しかったこともあって海軍本部委員会の委員の一人に任命された[14]。グレートブリテン王国成立(スコットランド併合)後の最初の議会である1707年の議会では、庶民院の海軍批判が激しかったが、ウォルポールの巧みな答弁のおかげで政府は戦費の承認を取り付けることに成功した[15]。