ロバート・ウォルポール
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1721年4月に第一大蔵卿に就任。閣議を主宰して他の閣僚を統制し、議会の与党議員も統制して議会の支持を基盤にした最初の閣僚という意味でこの時期のウォルポールを「初代イギリス首相」とするのが一般的である(→初代首相(1721-1742))。政権内ライバルを失脚させたり、トーリーや反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って野党活動をけん制することで議会を掌握し続けた。1722年総選挙1727年総選挙では政府機密費を流用して買収に励んだ結果、大勝を収めた(→政敵を排除して権力強化)。勃興期のジャーナリズムに対しては言論統制に努め、買収や言論弾圧を盛んに行った。1737年には演劇検閲法を制定して言論統制を演劇に拡大し、ヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を弾圧した。ジャコバイトの海外連絡の監視も強化した(→言論統制)。こうした政敵排除によって「ロビノクラシー」「パクス・ウォルポリアナ」と称される強力な安定政権を樹立することができた。

外交面では議会の不安定化を嫌って戦争回避の平和外交に努めた(→外交)。経済政策も議会統制の観点から行い、土地税減税・国内商工業振興・塩税など、議会に影響力を持つ地主・ブルジョワを優遇し、議会に影響力を持たない民衆から絞り取る路線を目指した(→経済政策)。1733年には土地税減税を続けるべくタバコ消費税導入を目指したが、一般消費税への拡大や徴税官の立ち入りを恐れたイギリス商人層が反発し、議会の野党活動が高まり、法案は挫折。直後の1734年総選挙も与野党の議席差が約100議席に縮まる結果となり、ウォルポールの議会統制力に陰りが見え始めた(→消費税法案の挫折)。

1739年には議会の反スペイン感情の高まりでスペインに対してジェンキンスの耳の戦争に及ぶことを余儀なくされたが、ウォルポール自身は戦争指導に消極的だったので政治指導力を落としていった(→ジェンキンスの耳の戦争)。さらに1741年総選挙で与野党の議席差は20議席以下にまで縮まった。その後、召集された議会での採決に僅差で敗れたため1742年2月をもって辞職した。退任とともにオーフォード伯爵に叙せられた(→退任)。1745年3月18日にロンドンで死去した(→余生と死去)。

ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後のイギリス帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある(→人物・評価)。
生涯
生い立ち

1676年8月26日、イングランド東部ノーフォークの寒村ホートン(英語版)に生まれる[1][2][3]。父は地主で後に庶民院議員も務めるロバート・ウォルポール(英語版)[4][5][3]。母はその夫人メアリー(旧姓バーウェル)[4][5]。夫妻は19人もの子供を儲けており、ウォルポールはそのうちの第5子・3男であった[4][2][6]

ウォルポール家は爵位貴族でこそないが、13世紀まで系図を遡れる旧家であった[6]

イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した[1][7]。跡継ぎになる前には父から聖職者になる事を望まれていたというが、大学在学中の1698年に長兄エドワードが急死し、次兄バーウェルもそれ以前の1690年大同盟戦争におけるビーチー・ヘッドの海戦(英語版)で戦死していたため、急遽彼がウォルポール家の跡継ぎとなった。父の体調も悪化していたので、父の命令で地主業の勉強に専念すべくケンブリッジ大学を退学してホートンへ戻った[1][7]

父の勧めで1700年7月30日に裕福な材木商人ジョン・ショーター(John Shorter)の娘キャサリン(英語版)と結婚したが、彼女は我がままであり、後にうまくいかなくなる[8]。同年11月18日に父が死去し、財産を相続した[1][9]
政界入り直後の野党期(1701-1705)

1701年1月11日に父が議席を持っていたカースル・ライジング選挙区(英語版)から初当選し、ホイッグ党所属の庶民院議員となる。翌1702年7月にはキングス・リン選挙区(英語版)から選出され、以降40年にわたってこの選挙区の議席を維持する[3][1]

1702年3月、ステュアート朝最後の君主アン女王が即位した。スペイン王位継承問題をめぐる英仏の対立や、フランスがアン女王の異母弟でジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワードジャコバイトが擁立する王位僭称者)を真のイングランド王・スコットランド王と認定したことなどでイングランド国内の対仏気運が高まり、同年5月にも女王はフランスに宣戦布告した(スペイン継承戦争[10]。女王はトーリー党中心の戦時体制を構築し、シドニー・ゴドルフィン(後の初代ゴドルフィン伯爵)が政治、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルが軍事、ロバート・ハーレー(後の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵)が庶民院を主導する三頭政治が展開された[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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