フェイセズのデビュー・アルバム『ファースト・ステップ』[注 1]は1970年前半に発表され、その音楽スタイルはローリング・ストーンズに似通っていた。アルバムは、アメリカよりもイギリスでヒットし、バンドはライブでの評判が高まった。
2ndソロ・アルバム『ガソリン・アレイ』をギタリスト、マーティン・クイッテントンと共に発表。この頃はロッドのソロアルバムもフェイセズは惜しみなくレコーディングに協力していた。3rdソロ・アルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が英米チャート共に同時1位という、史上5度目となる快挙を成し遂げる。また、シングル・カットされた「リーズン・トゥ・ビリーヴ/マギー・メイ」も大ヒット(全英1位/Billboard Hot 100で全米1位[8])を記録する。「マギー・メイ」は当初シングルB面扱いだったが、同曲を気に入ったラジオDJ達が後にA面扱いで紹介した(プレス上はB面のままである)。
1972年11月には、ロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団(英語版)によるロック・オペラ『トミー』のアルバム制作とコンサート[注 2]に客演して、「ピンボールの魔術師」を独唱した[注 3][9]。同曲は1973年に発表された初のベスト・アルバム『シング・イット・アゲイン・ロッド』にも収録された。
フェイセズとしても3枚目のアルバム『馬の耳に念仏』がヒットし、「ステイ・ウィズ・ミー」が代表曲として知られるが、ロッドのソロ活動が成功するうち、バンド内に亀裂が生じることとなる。4thアルバム『ウー・ラ・ラ』ではレコーディングに参加しない楽曲まであり、フェイセズも当時のレコード会社の方針でロッドのバック・バンドのような扱いになってしまう。また、『ウー・ラ・ラ』をロッドが「完全な失敗作」などと批判する記事が掲載されたり、ソロ歌手として全米進出を目論んでいた矢先、レコード会社移籍問題で裁判になるといったトラブルも報じられた。これらが要因となり、1973年5月、リーダー格ロニー・レーンが脱退。同年7月には、日本人ベーシスト、山内テツが加入する。
その後もツアーは行われ、1974年2月には大阪と東京で全4公演の来日公演も組まれた(大阪2日目はキャンセル)。しかし、ライブ・アルバムの発表を機に“ロッド・スチュワート&フェイセズ”とロッドが主体となるようクレジットが変更されたこと、フェイセズのツアーにもかかわらず、セットリストの多くはロッドのソロ名義の曲となり、関係の修復は困難となった。後にロッドは「ロニー・レーンはストーンズにおいてのキースの様な存在だった。彼の脱退と同時にフェイセズの魂は無くなってしまった」と語った。
1975年にはロン・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、ツアーも敢行されたが、この年にバンドは解散した。 グループ時代から並行してソロ活動を続けた。1970年まではロッドの知名度は英国内にとどまっていた。しかし、1971年のトラッド・フォークを取り入れた「マギー・メイ」は全米1位の大ヒットとなり、ロッドの知名度はワールドワイドになった。翌年、「ユー・ウェア・イット・ウェル」もヒットしている。フェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。このころから「ロック芸能人」的な見方をされるようになった。同アルバムはスティーヴ・クロッパーやジェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが参加した作品で、シングル「セイリング」が英国でヒット(全英1位)。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなった。 『明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動した。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」が1979年にヒットしたこともあり、全米で4週連続1位に輝いた。
ソロ時代