ロッジP2
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ジェッリ代表などを中心とした一部のメンバーが反共主義活動の一環として、左翼運動家や反政府ゲリラのみならず、政府批判を行った国民を弾圧していたアルゼンチンやウルグアイなどの南アメリカの軍事独裁政権や、民主的な選挙で選択された政権に対する軍事クーデターを起こそうと画策しているボリビアやチリの軍部に向けて、戦闘機ミサイル装甲車などの武器買い付けを行った。

なお、これらの南米諸国には古くからイタリア系移民が多く、軍首脳部にイタリア系移民の子孫も多かった。さらに、古くからドイツ系移民の子孫も多かった上に、第二次世界大戦後に南米諸国に亡命したナチス政権下のドイツ軍将校をアドバイザーとしていることも多かった。オットー・スコルツェニー

さらにジェッリ代表ら主要メンバーは、1970年代にアルゼンチンで反政府的な左翼運動家や反政府ゲリラに対して「汚い戦争」を進めていた、軍人出身のホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を資金面で積極的に支援していた。しかしこれらの資金の多くが違法に調達されたものであった。また、1982年にアルゼンチンとイギリスとの間に起きたフォークランド紛争で、アルゼンチン空海軍機に搭載され、多くのイギリス海軍艦船を沈め有名になったフランス製の「エグゾセ・ミサイル」も、ジェッリ代表やメンバーにより調達されたものであることが明らかになっている。
元ナチスやCIAとの関係

なお、ジェッリ代表やアルゼンチンのメンバーは、第二次世界大戦後に戦犯容疑者となったものの、ジェッリやバチカンの協力を得てボリビアに逃亡した後に同国の軍事政権のアドバイザーを務めていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーや、同じく元ドイツ軍士官でムッソリーニ救出作戦の指揮官として知られ、ドイツの敗戦後はスペインや南アメリカに亡命し暮らしていたオットー・スコルツェニーとも、これらの武器の輸出を通して関係を続けていた。

さらに、ジェッリ代表を含む複数のメンバーは、バルビーやスコルツェニーのみならず、冷戦下においてこれらの南アメリカの軍事独裁政権を同じく支援していたアメリカ合衆国中央情報局(CIA)との関係、さらには「グラディオ作戦」との関係も明らかになっている[1]
認証取り消し

この様な違法かつ倫理観に欠ける活動が明らかになったことが、当時共産党などの左翼政党が大きな勢力を維持していたイタリア国内で大きな疑惑と批判を浴び、1974年には「イタリア大東社」傘下のロッジとしての承認取り消しが提起され、1976年に「イタリア大東社」傘下のロッジとしての認証が取り消され、フリーメイソンから正式に破門されることとなった[1]

しかし、その後もジェッリは「イタリア大東社」内の他のロッジで活動を続けた上に、他のメンバーも、イタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に他のロッジのメンバーとなりつつ秘密裏に「ロッジP2」として秘密裏に活動を続け、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動した。
コリエーレ・デラ・セラ紙への経営介入

その後1977年には、当時の与党であるキリスト教民主党との対立により、イタリアの主要銀行からの融資を止められ資金難に陥っていた日刊紙「コリエーレ・デラ・セラ」の親会社であるリッツオーリ社に、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件にジェッリが融資を持ちかけた。なお、リッツオーリ社のアンジェロ・リッツオーリ社長は「ロッジP2」のメンバーである[2]

その後ジェッリは、自らと関係の深かったバチカン銀行の総裁で、枢機卿でもあるポール・マルチンクスが違法に調達した資金をリッツオーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで保守主義的な論調を取ることとなった。
ボローニャ駅爆破事件爆破されたボローニャ中央駅

1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、駅舎と駅構内に停車していた客車が破壊され、これにより外国人を含む85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は鉄道事故と思われていたものの、事件後の捜査で捜査員が爆心地近くで金属片とプラスチック片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。


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