ロッキー山脈
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氷期が180万年前の更新世から1万年ほど前の完新世初期にかけて繰り返し生じ、ロッキー山脈は度々氷河に覆われ、最終氷期にはイエローストーン国立公園の90%は氷に覆われていた。また1550年頃から1860年頃までの小氷期にも氷河の発達がみられ、グレイシャー国立公園内にある氷河は1860年頃に最も前進していた。ロッキー山脈からの雪解け水は山脈を水源とする河川や近隣の湖沼・人造湖を潤す。写真はコロラド州ディロン近くの人造湖。

は様々な形で現在のロッキー山脈に谷を刻んでいる。山から流れ出した水は河川湖沼を形成し、アメリカ合衆国内の水源の1/4を占めている。ロッキー山脈は大陸を大きく分ける分水嶺となっており、ロッキー山脈から流れ出す河川太平洋大西洋北極海の3つの大洋に注ぐ。ただし、ワサッチ山脈西側の降水は海へと注がず、グレートソルト湖に流入して止まってしまうため、内陸河川となっている。ロッキー山脈を水源とする主な河川には次のようなものがある。

アーカンザス川

アサバスカ川

イエローストーン川

クートネー川

コロラド川

コロンビア川

サスカチュワン川

スネーク川

ピース川

プラット川

フレーザー川

ミズーリ川

リオグランデ川

リアード川

ユーコン川

ロッキー山脈の気候は中緯度・高緯度の高山性で、気温の年較差・日較差がともに大きい。北部や頂上付近では寒帯ツンドラ気候に似た気候を示す。山麓では乾燥帯ステップ気候に属する地域がほとんどを占め、カナダ領内では亜寒帯亜寒帯湿潤気候に属する地域がある。

ロッキー山脈の東麓には、チヌークと呼ばれる風がよく吹く。この風は乾燥しており、強いフェーン現象を引き起こすため、この風が吹くと周辺の気温は急速に上昇する。気温が20度以上も上昇し、湿度は10パーセント以下に下がることが多く、この風が吹くと周辺の雪が急速に溶けることから、雪食い(Snow-eater)の名でも知られる。
人類の歴史

最終氷期の終わりごろ、ロッキー山脈の周辺にはパレオ・インディアン(Paleo-Indians)と呼ばれる原始のネイティブ・アメリカンが住んでいた。パレオ・インディアンは後にアパッチアラパホ、クーテナイ、クロウシャイアンショショーニスー、セカニ、デュネザ、バノック、ブラックフット、フラットヘッド、ユートなどの各部族に分化していった。パレオ・インディアンは山麓や谷でマンモスや古代バイソン(現代のアメリカバイソンより20%ほど大きかった)を狩って生活していた。また、彼らはその後分化した子孫たちと同様に、秋や冬には山麓や谷に下りてバイソンを追い、春や夏には山に上って魚を釣ったり、シカアメリカアカシカを狩ったり、根菜漿果を採ったりして生活していたとする説もある。コロラド州の大陸分水嶺沿いには、5,400-5,800年ほど前にネイティブ・アメリカンが狩猟に用いるために建てた岩の壁が残っている。ネイティブ・アメリカンはこの地で行った狩りによって哺乳類の生息状況に、また焼畑によって植物の生息状況に影響を及ぼしたとする科学的証拠もある。北進するコロナドの探検隊

その後長くロッキー山脈周辺は未開の地であったが、アメリカ大陸にヨーロッパ人の入植者が入ると山脈の周辺にも探検家が足を踏み入れるようになった。スペイン人探検家フランシスコ・バスケス・デ・コロナド1540年から1542年にかけて、戦士、使節、アフリカ奴隷を連れてメキシコからカンザスへと探検を行った[1][2][3]。コロナドとその一行はその道中にロッキー山脈の南端、現在のニューメキシコ州の北部を通っていった。コロナド一行はこの地域に金属製の道具、ライフルなど、ネイティブ・アメリカンがそれまで使用していなかった道具を持ち込んだ。また、ヨーロッパ文化も持ち込み、それまでのネイティブ・アメリカンの文化を大きく変えた。一方で、ヨーロッパ人たちはネイティブ・アメリカンたちと戦争を起こし、それまでこの地には見られなかった病気も持ち込んだため、この地域のネイティブ・アメリカンの人口は激減した。

アレグザンダー・マッケンジー1793年にロッキー山脈を越えた初めてのヨーロッパ人であった[4]。マッケンジーは山中でフレーザー川の上流域を探検し、同年7月20日にカナダ太平洋岸、現在のブリティッシュコロンビア州ベラクーラ(Bella Coola)にたどり着いた。これは、メキシコより北の北アメリカで記録に残っている最初の大陸横断であった[5]

ロッキー山脈地域で初めて科学的な調査を行ったのはルイス・クラーク探検隊であった[6]。ルイスとクラークの一行は1804年から1806年にわたって行ったその探検の道中、近代植物学者、動物学者、地学者の研究の参考となる標本を多数採取した。ルイスとクラークの探検は「東からのヨーロッパ人にロッキー山脈へ、そしてその先への道を開いた」とされているが、実際には、ルイスとクラークはその探検の最中に少なくとも11人のヨーロッパ人に会っていた。

これらの探検隊のほか、18世紀のロッキー山脈には毛皮鉱物を求めて山を渡り歩いたヨーロッパ人が多数いた。ノースウェスト会社1799年、現在のアルバータ州にロッキー・マウンテン・ハウス(Rocky Mountain House)という毛皮取引所を開設した。ライバルであったハドソン湾会社もまた、ロッキー・マウンテン・ハウスの近くにアクトン・ハウス(Acton House)を開設した[7]。これらの取引所は19世紀初頭におけるロッキー山脈地域の探検の基地ともなった。毛皮取引商から探検家・地図製作家に転身したデイビッド・トンプソンは、ヨーロッパ人としては初めてコロンビア川太平洋まで下る探検を行った[8]ソルトレイク神殿、1912年

19世紀を下るとさらに急速に変化が進んだ。19世紀初頭の段階で、北緯49度線より南、現在のアメリカ合衆国領内では白人が既に趨勢を占めるほどになっていた。1832年には、比較的平坦なワイオミングの南部を通る馬車がロッキー山脈を越えて走った。1840年代には、数千人の開拓者がオレゴン・トレイルを通って西をめざすようになった[9]1847年ブリガム・ヤング率いるモルモン教徒の一行がロッキー山脈を越えてグレートソルト湖のほとりにたどり着き[10]、ワサッチ山脈西麓の砂漠の中に総本山となるソルトレイク神殿とソルトレイクシティを建設した。


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