ロッキード事件
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1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという[1][注釈 6]

選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという[1]
トライスターの発注イギリス首相エドワード・ヒース

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した[2]
チャーチ委員会ロッキードF-104J

田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった[注釈 7]。この1970年代はニクソン、フォードの共和党政権時で、多国籍企業小委員会のチャーチは民主党議員である。
明らかになっていく「工作」児玉誉士夫(前列左、1953年)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(当時の日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル未解決事件[注釈 8]でインタビューに応じた丸紅専務の大久保利春[注釈 9]の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山[注釈 10]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[注釈 11]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。
国会

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、前社長の大庭哲夫、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春、専務伊藤宏、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良[注釈 12]などが証人喚問され、この模様はテレビで全国中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。
捜査
捜査開始ジェラルド・フォード大統領

その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領ジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁東京高等検察庁東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた[9]

三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日に国務長官のヘンリー・キッシンジャーと会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。同月23日、アメリカ政府は日本の検察に資料を渡すことを合意した[10]
「ロッキード隠し」

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大した。とくに時の総理の三木はバルカン政治家と呼ばれるほど駆け引き・閥務に長けていたものの、当時の自民党の四大派閥の中では最小ともいえる少数派閥の領袖であるうえ、田中元首相の金脈問題による退陣の後を受け、比較的利権と縁の薄いクリーンなイメージが買われて、本来は党イメージの立て直しが期待されての就任であった。本人も少数派閥の領袖であるがゆえ、政権基盤の維持のためには国民の支持も重要であることを十分理解していた。ところが、ロッキード事件との関連を疑われる議員を抱える大派閥の領袖・有力幹部らにとっては、自党・自派閥の勢力維持のためには従来からのスキャンダル対処の定石通り、捜査の牽制・事件化の抑制や事態の極小化によって鎮静を図ることを期待、少数派閥の長である三木はそれに従うべき存在のはずであった。しかし、三木は政治犯罪の疑惑があれば真相を解明すべきとの態度をとり、世論の支持を背景に政権の座を維持することを決意した。結局、田中派議員が主要対象となった捜査の進展につき、親田中の議員は寧ろそれを逆手にとるような形で「国策捜査」だと主張し、批判した[11]。対して、日本国民やマスコミはこのような政界の動きを「ロッキード(事件)隠し」と批判することとなった。
「三木おろし」

まず、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件解明への積極姿勢を見せる三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派福田派椎名派水田派船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなった。


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