1796年に集落は市の地位を与えられ、古都ロストフと区別するためにロストフ・ナ・ドヌと改名された。1797年にはロストフ・ナ・ドヌとノル・ナヒチェヴァンはともにノヴォロシースク県に属した。砦は18世紀後半には露土戦争の際のロシア軍の基地となったが、やがて重要性を失い19世紀前半にはアナパへ移された。ドン川沿いの夕暮れ文化宮殿生神女福音大聖堂とロストフのディミトリー像仲裁教会
ロシア革命後のロシア内戦では、交通と産業の中枢であるロストフ・ナ・ドヌは白軍と赤軍が争奪する戦地となった。1928年にはロストフ州が成立し、19世紀以来コサックのドン軍県の行政中心地だったノヴォチェルカッスクからロストフ・ナ・ドヌに中心が移った。同年、ロストフ・ナ・ドヌは、ノル・ナヒチェヴァン(ナヒチェヴァン・ナ・ドヌ)の街も併合した。2つの街の間に広がっていた麦畑は、現在はロストフ・ナ・ドヌの中央広場である劇場広場になっている。1929年には巨大な農作業機械工場ロストセルマシュ(Rostselmash)が完成し、同社は現在でもロシアのトラクター市場の半分以上のシェアを占め、世界的にも大きな存在感を持つ。一方で、ソビエト連邦時代の宗教抑圧政策により、1908年完成のアレクサンドル・ネフスキー聖堂と1807年完成のナヒチェヴァン・聖ゲオルグ聖堂の2つのランドマークが解体されてしまった。 さらに、第二次世界大戦(独ソ戦)でロストフ・ナ・ドヌの街全体も廃墟と化した。1941年秋にはドイツ国防軍がロストフを占領し、死守する赤軍との戦闘は7日間続いた。ロストフ・ナ・ドヌは鉄道路線の中枢であり、鉄道と水運の連絡点であり、金属や石油が豊富なカフカースへの玄関でもあるためドイツ軍にとっては非常に重要であった。しかしこの時の攻撃ではドイツ軍は撃退された(ロストフの戦い)。1942年夏にはドイツ軍は再度ロストフ・ナ・ドヌを攻め、赤軍を撤退させた。この時の占領は7カ月続いた。戦後の再建には10年以上の年月が必要であった。 ヴォルガ・ドン運河が1952年に建設されるとロストフ・ナ・ドヌは黒海、アゾフ海、カスピ海、白海、バルト海の五つの海とつながるようになった。 ソビエト連邦の崩壊後は経済が低迷したが、その後の回復でロストフ・ナ・ドヌも復活しつつある。石油や鉱物資源の豊富な後背地を抱え、技術力も有するこの街は新たな工業や商業の中心になりつつある。 2023年6月24日にはウクライナ軍事侵攻をめぐってウラジーミル・プーチン大統領との対立が決定的となった民間軍事会社・ワグネル創始者のエフゲニー・プリゴジンがロシア軍より攻撃を受けたとして武装蜂起を行いロストフ・ナ・ドヌを占領、軍事施設などを掌握したと主張した[5]。 ソ連時代に多くの聖堂が解体されたが、コンスタンチン・トン設計の生神女福音大聖堂(1860年-1887年建設)は現存し、街のシンボルともなっている。 ロストフには南部連邦大学、ドン国立工科大学、鉄道技術者大学、ロストフ国立農協機械大学など多数の大学が集積している。また40か所以上の大きな図書館も抱える。マクシム・ゴーリキー記念ドラマ劇場や青少年劇場、美術館や博物館も抱えている。 ロストフ・ナ・ドヌの文化の伝統も豊かであり、美術家、音楽家、小説家、科学者らがここで生まれたり教育を受けたりした。アントン・チェーホフ、ミハイル・ショーロホフ、ゲオルギー・フリョロフらゆかりの人物も多い。 ロシアサッカー・プレミアリーグに所属するFCロストフの本拠地ロストフ・アリーナがある。
ドン川やアゾフ海の水運と、ロシアからカフカースへと向かう交易路が交わる地理的な位置により、ロストフ・ナ・ドヌには急速な発展がもたらされた。ロストフ・ナ・ドヌには、ドン川を下ってきたロシア中央部の人々や、黒海・地中海からのイタリア人・ギリシア人・トルコ人商人らを乗せた客船や貨物船が集まり、繁華な港へと成長してゆき工業も始まるようになった。1850年には15,000人だった人口は、20世紀初頭には110,000人へと増加した。1872年には北カフカース鉄道がロストフ・グラーヴヌィ駅に達し、カフカース方面への鉄道の拠点となった。
ソ連時代以降
文化
スポーツ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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