ロジャー・ダルトリー
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ダルトリーが戻った同月20日にはムーンが脱退を宣言し、1週間ほど仕事を放棄した[18]。さらに当時エントウィッスルも脱退してムーディ・ブルースに加入することを画策しており[注釈 3][19]、ザ・フーは非常に不安定な状態にあったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアーを経て「バンドが団結することが出来た」とダルトリーは振り返っている[20]

1971年にはエントウィッスル、1972年にはタウンゼントがソロ・アルバムを発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーのリード・ボーカリストとしての立場にこだわり、ソロ活動に興味を示すことはなかった。それが変わったのは1973年。往年のポップ・シンガーのアダム・フェイス(英語版)とその相棒のデヴィッド・コートニー(英語版)から、彼等がマネージメントをしていた新人シンガー・ソングライターのレオ・セイヤーを紹介されたことが、彼をソロ活動へ向かわせるきっかけとなった[注釈 4][21]。楽曲、プロデュースを彼等3人にゆだねて製作されたファースト・ソロ・アルバム『ダルトリー』はバラードが中心となり、ザ・フーのリード・ボーカリストとは全く違った彼の一面を見せる作品となった[注釈 5][22]。シングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ(英語版)」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーのソロ作品中最高のヒット作となる[23]。アルバムも全英6位まで上昇している(全米は45位)。

1975年、ダルトリーは俳優デビューを果たす。1969年にザ・フーが発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり、主人公のトミーを演じたのである。この映画が彼の俳優としての才能を開花させ、以降様々なドラマ、映画に出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により一躍注目を集めたダルトリーは、宣伝のために訪れたアメリカ合衆国では女性たちに囲まれたという[24]。また同年、ラス・バラードをプロデューサーに迎えて2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』を発売する。前作とは打って変わってハードな楽曲を収録したアルバムは前作を大きく上回る売上を立て、全英14位、全米28位にまで上った[注釈 6][25]

ソロ活動が充実する一方、ザ・フーでの活動にはこの頃より軋みが生じるようになる。1975年、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』の取材でダルトリーに対し厳しい意見を述べたタウンゼンドに対し、ダルトリーは同じ紙面でタウンゼントを痛烈に批判した[26]。これにより2人の不仲が知られると、ザ・フー解散説が浮上した。さらに、ムーンが長年の不摂生により以前のような公演活動から身を引いたため、ザ・フーの活動は停滞気味になる。そのような中での1977年、3枚目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』を発表。アルバムにはウイングスポール・マッカートニーが新曲を提供し、エントウィッスルの他、ハンク・マーヴィンエリック・クラプトンアルヴィン・リーなど豪華ゲストが多数参加した[注釈 7]。しかし売上は前作ほどは伸びず、チャート成績も全英45位、全米46位に終わった[25]

1978年、ムーンが死去。1979年、ダルトリーは元フェイセズケニー・ジョーンズを後任のドラマーとして採用し、新生ザ・フーを始動させる。しかし、間もなくダルトリーはジョーンズとの間に軋轢が生じさせた。ダルトリーはジョーンズの演奏を好まず[27][注釈 8]、ジョーンズを解雇するためタウンゼントを説得するようマネージャーに頼むほどだった[28]。ダルトリーは「キースは俺のボーカル・ラインに沿ってドラムを叩いてくれたがケニーは違う」と主張し、タウンゼンドを悩ませた[29][注釈 9]

1980年、実在する脱獄囚であるジョン・マックヴィカー(英語版)[30]を取り上げた映画『マックヴィカー(英語版)』に主演。同映画のサウンドトラック盤『マックヴィカー』は、彼の4枚目のソロ・アルバムに相当するが、ジョーンズを含むザ・フーのメンバー全員が参加したため、ザ・フーの課外活動の意味合いが強い。本作は彼のソロ活動史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した[25]。シングル・カットされた「ウィザウト・ユア・ラヴ(英語版)」[注釈 10]も全米20位を記録して、彼のアメリカでの最大のヒット曲になった。

求心力を失っていたザ・フーは、1982年9月末から12月まで解散ツアーを行なった後、1983年6月に正式に解散を表明する[31]
1984年以降

1984年、ザ・フー解散後初となる5枚目のソロ・アルバム『パーティング・シュッド・ビー・ペインレス』をリリース。シングル「ウォーキング・イン・マイ・スリープ(英語版)」が全英56位、全米62位につけるも、アルバムは内容が大人しく地味だったためか[注釈 11]全米102位に終わり、商業的には奮わなかった[32]。しかし、翌1985年にタウンゼンドが提供した新曲「アフター・ザ・ファイヤー(英語版)」[注釈 12]のシングルが全英50位、全米48位を記録し、日本でもスズキ・カルタスのCMソングに起用された。同曲を収録した6枚目のアルバム『月の影』は、プロデューサーにアラン・シャックロック(英語版)、ゲストに当時人気絶頂のブライアン・アダムスを迎え、ダルトリー自身も作詞に積極的に関わった作品のなり、チャートでは全米42位、全英52位につけた。このアルバムの宣伝のため、ダルトリーは初のソロ・ツアーを敢行する。公演ではザ・フーの楽曲も披露し、高い評価を得た[33]

1987年、前作同様シャックロックと組んで制作した7枚目のソロ・アルバム『今宵、シネマで』をリリースするもチャート・インを果たせず[32]。しばらくソロでの音楽活動から遠ざかるが、1989年のザ・フーの結成25周年記念ツアーを経て、良い刺激を受けたダルトリーは再びソロ・アルバム製作に意欲を燃やす。1992年、8枚目のソロ・アルバム『ロックス・イン・ザ・ヘッズ』を発売[注釈 13]。だが宣伝不足と北米限定という販売戦略により、前作同様チャート到達を果たせなかった[33]。その後2018年までの26年間、ソロ名義のオリジナル・アルバムは製作されなかった。同年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演して、「アイ・ウォント・イット・オール」を演奏した。

ザ・フー結成30周年となる1994年オーケストラを従えてザ・フーの楽曲を演奏するソロ・ツアーを敢行。初日のニューヨーク公演にはタウンゼンドやエントウィッスルも参加した。当時不安神経症を患っていたタウンゼンドは出演を辞退しようとしてダルトリーを激怒させたが、その後参加を決めた[34]。この公演の模様を収録した『ア・セレブレーション - ザ・ミュージック・オブ・ピート・タウンゼンド・アンド・ザ・フー』は年内に発売された。収録曲の中には既に発表されていたタウンゼンドのソロ・アルバムの楽曲をダルトリーが取り上げたものもあった[35][注釈 14]


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