ロシア
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また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照[39])され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった[38]

アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国フィンランド大公国を支配して[注釈 13]神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義分離主義運動は厳しく弾圧された。

1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジアアフガニスタンガージャール朝ペルシア(現・イラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は過激なアナキズム(無政府主義)やテロリズムを横行させ[38]、無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。

ロシアのシベリア征服が進み、中国大陸を支配するや日本との接点が生じた。清とはネルチンスク条約(1689年)おとびキャフタ条約 (1727年)により境界を定めていたが、清の弱体化によりロシアは極東でも南下政策をとった。アイグン条約(1858年)によりアムール川北岸を奪い、さらにアロー戦争の講和(北京条約)を仲介した見返りに日本海に面する沿海州を獲得し、ウラジオストクを建設した。

19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加により極東へのシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年日露戦争となった[38]1905年血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリス英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。
ソビエト連邦詳細は「ソビエト連邦」、「ソ連型社会主義」、および「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」を参照1922年までにおけるソビエト連邦の一部としてのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国

1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子らがセルビア人に暗殺されると(サラエボ事件)、同じスラブ系国家であるセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国およびその同盟国であるドイツと対立して互いに軍を動員し、第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国の一員として中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国)と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された(東部戦線 (第一次世界大戦))。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命ロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、シベリア出兵などで諸外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でソビエト政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を結び大戦から離脱した後、赤軍を率いてロシア内戦に勝利し、1922年の年の瀬には共産党による一党独裁国家ソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだ構成4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルク[注釈 14]はレニングラードに改称された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国自治州民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。

ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは、事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は連邦崩壊直前の1990年まで創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナ共和国白ロシア共和国(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。

1930年代世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下で農業集団化重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。


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