古代ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人(スクラヴ人(英語版)とアント人)は、王を持たない民主的な体制で、彼らが犠牲を捧げる「稲妻の創造主」(ペルーン)という単一の神を信じる野蛮人であるとした。また、非常に背が高く丈夫な体を持ち、髪色は金髪ではないが完全な暗色でもないとした[37]。
スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は、自然の法則を支配する天の神々と、人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という、2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。
5世紀の初めに、スラブの部族は極東ロシアの領土に移動し、この地域を支配し始めた。同時に、スラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。
中世11世紀のキエフ大公国
9世紀の北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている民族集団「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[注釈 11]。後代に書かれた『原初年代記』[注釈 12]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった[要出典]。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った[38]。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。イヴァン雷帝
数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にジョチ・ウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領した。一方、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
ロシア帝国詳細は「ロシア帝国の歴史」を参照ロシア帝国初代皇帝、ピョートル1世ロシア帝国と勢力圏
1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策と、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利などによってロシア帝国の絶対主義体制の基盤を固めた[38]。彼の時代から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年と1787年 - 1792年)に勝利するとともに、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照[39])され日露関係が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった[38]。
アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して[注釈 13]、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。