1721年10月22日 (11月2日)にピョートル1世はインペラートルの称号を採用し、プロイセン王国とネーデルラント共和国は即座に、スウェーデンは1723年に、オスマン帝国は1739年に、グレートブリテン王国とオーストリアは1742年に、フランス王国とスペインは1745年に、最後にポーランド・リトアニア共和国が1764年にロシアの新君主号を承認した[4]。ロシア・ツァーリ国という国名もインペラトルに合わせて新たにロシア帝国(Русской империей[5])と改称したのである。
1722年2月5(16)日にピョートル1世は、それまでの中世以来の慣例を廃止して、帝位は男子の直系子孫に継承されるが、皇帝の叡慮によりそれに相応しい人物は後継者として指名されることを許されるという旨の帝位継承に関する布告(ロシア語版)を発行した。
1797年4月5(16)日にパーヴェル1世は新たな帝位継承に関する法律を作成した。これによりロシア帝位継承者は基本的には長子であることが原則とされ、それに続く者はポーランドとフィンランドとの関係が結ばれることとなった。このことは即ち、長子たる帝位継承者が薨去ないし拒絶した場合に備えて継承できるように、以下に続く者がその代理人としての役割を担わされたということを意味するのである。直系で帝位継承者がいない場合には傍系の者に継承順位が移ることとなっている。直系傍系を含む家系内においては男性の方が女性よりも優先とされ、女性を差し置く形で傍系男子の者が要請されることとなった。皇帝に即位する際に求められていたことは、わずかに正しい信仰の告白のみである。君臨する皇帝および継承者が16歳に達すると、例え統治能力が欠けていたとしても、自身の統治権が行使されることになっている。ただし皇帝に、統治して早世した場合を除く何らかの事態が生じた際には、生存しているその父母が皇帝不在時における継承者の最有力候補の地位に納まることとなっている。
ロシア帝国の統治者はみな、1613年に即位したミハイル・ロマノフに始まるロマノフ家の血統に属している。もっとも、1761年以降の皇統はピョートル1世の娘アンナとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの子孫に移り、男系ではオルデンブルク家の分枝にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家に属していることから、2人の息子であるピョートル3世以降は厳密にはホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の血統に属している。
ロシア革命の1917年3月2(15)日に皇帝ニコライ2世が皇太子アレクセイの継承権を放棄させる形で退位し、翌3(16)日に≪最高統治権を委ねられていた≫弟のミハイルも辞退(ロシア語版)したことで皇帝の存在は事実上消滅した形となった。9月1日には臨時政府によって共和制の布告がなされた。 皇帝肖像画紋章統治
歴代皇帝一覧
開始統治
終了戴冠日И.
ピョートル1世
(1672年?1725年)1721年11月2日(ユリウス暦 10月22日)
(1682年 ? 1721年 ?
全ロシアのツァーリ)1725年2月8日(ユリウス暦 1月28日)1682年7月5日(ユリウス暦 6月25日)[6]
エカチェリーナ1世
(1684年?1727年)1725年2月8日(ユリウス暦 1月28日)1727年5月6日(ユリウス暦 5月17日)1724年5月18日(ユリウス暦 5月7日)
(ピョートル1世の皇妃として)[7]
ピョートル2世
(1715年?1730年)1727年5月17日(ユリウス暦 5月6日)1730年1月30日(ユリウス暦 1月19日)1728年3月8日(ユリウス暦 2月25日)[8]
アンナ
(1693年?1740年)1730年2月26日(ユリウス暦 1月15日)[пр. 1]1740年10月28日(ユリウス暦 10月17日)1730年5月9日(ユリウス暦 4月28日)[9]
イヴァン6世
(1740年?1764年)1740年10月28日(ユリウス暦 10月17日)1741年12月6日(ユリウス暦 11月25日)戴冠式は行わず[10]
エリザヴェータ
(1709年?1762年旧暦では1761年 )1741年12月6日(ユリウス暦 11月25日)1762年1月5日(ユリウス暦 1761年12月25日)1742年5月6日(ユリウス暦 4月25日)[11]
ピョートル3世
(1728年?1762年)1762年1月5日(ユリウス暦 1761年12月25日)1762年6月28日(ユリウス暦 7月9日)死後の1796年に