ロサンゼルス
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そのうち10,000人が未成年、24,505人が精神疾患、8,453人が退役軍人、約7,200人が家庭内暴力の被害者である[17]。2019年現在もスキッド・ロウなどを中心に、36,000人のホームレスが路上にテントを張るなどして居住している[18]
周辺都市ビバリーヒルズ

パサデナ

ウェスト・ハリウッド

ビバリーヒルズ

カルバーシティ

サンタモニカ

トーランス

ロングビーチ

ホーソン

ガーデナ

カーソン

アナハイム

アーバイン

コマース

エルモンテ

歴史詳細は「ロサンゼルスの歴史(英語版)」を参照
先住民の時代

もともとは沿岸部で、トングヴァ族(英語版)、チュマシュ族(英語版)、カフイラ族(英語版)、モハーヴェ族クミアイ族などのインディアン部族が豊富な漁猟資源を糧に漁猟採集生活を営んでいた。彼らはカヌーを使って周辺部族と交易し、貝殻の装飾品や滑石の器や彫刻を作り、魚のほかにアシカカワウソクジラを狩った。

1542年、白人で初めてフアン・ロドリゲス・カブリージョが船でこの地を訪れ、トングヴァ族に歓迎された。この探検家はサンタカタリナ島で死去した。
スペイン人による征服とアメリカ領へ詳細は「カリフォルニア・ミッション」を参照

1769年から1771年に、スペイン人はこの地に「サンガブリエル・アークアンヘル伝道所(英語版)」を建設した。1777年、スペイン人のネベ(英語版)総督が一般市民の居住する村落 (civic pueblos) を計画した。1781年に、ロス・アンヘルス住民(英語版) ("townspeople") が現ロサンゼルス市ダウンタウンのオルベラ街あたりに小さな村落を建設した。一方、地名はそれ以前にこの地に踏み入れ、モンテレー湾を目指していたポルトラが、聖母マリアにちなんでLos Angeles(ポルシンウラの天使達の女王)と名づけていたのを、そのまま利用したといわれる。

スペイン人はこの地に農場を作りはじめ、前述のインディアンたちを捕らえ、彼らをキリスト教に強制改宗させて十把一絡げに「ミッション・インディアン(英語版)(伝道インディアン)」と名づけ、農場労働や周辺部族の監督役に使役した。彼ら「ミッション・インディアン」は現在では、カリフォルニア独自のインディアン集団となっている。

1804年、スペイン領ヌエバ・エスパーニャラス・カリフォルニアズ(Las Californias、1770年-1804年)が分割されアルタ・カリフォルニア (Alta California) になった。1821年にはメキシコ帝国が独立し、メキシコ帝国領となったが1年ほどでメキシコ合衆国に移行した。1848年アメリカ・メキシコ戦争1846年-1848年)中にジョン・C・フレモントのベアフラッグ反乱(英語版)をきっかけに独立したカリフォルニア共和国 (California Republic) は、グアダルーペ・イダルゴ条約によりメキシコ割譲地(アリゾナ・ニューメキシコなど)とともにアメリカ合衆国領となった。1850年には市制が敷かれたが、当時の人口はまだ1610人であった。1853年ガズデン購入に際し、米墨国境線が確定した。
飛躍的発展市の近郊に立ち並ぶオイルリグ(1896年)

その後、鉄道網の発達に伴って、とりわけ柑橘類をはじめ野菜、穀物、牧畜などを東部に運び出すための集散地として北部のサンフランシスコとともに発展、同時にパサデナバーバンクサンタモニカなどの郊外都市も発展し、メトロポリス形成の基盤となる。しかし、ロサンゼルスが飛躍的に発展したのは20世紀に入ってからであり、さまざまな要因がある。1つ目は19世紀末の油田発見による石油化学工業の発達、2つ目は大戦中に急伸した航空機産業の発達、そして3つ目はハリウッドに代表される映画産業の発達が大きい。そして自動車交通の発展である。ロサンゼルス都市圏は非常に広域であるため、交通手段にマイカーは欠かせない。そのため、他の都市よりいち早くフリーウェイ高速道路)を整備し、10本以上の幹線が市街を網羅している。一方、市街交通手段として発達していたパシフィック電鉄などの路面電車は、1930年代から1960年代に次々と撤去され、世界的に例のないほどの自動車交通偏重の都市となった。そのため、1980年代大気汚染が深刻であったが、今日ではかなり改善されてきている。

こうして、市街地は急速に発展していった。しかし、一方で飲料水、工業用水の確保が急務となった。そこで1913年シエラネバダ山脈の東部を流れるオーエンズ川と市を結ぶ水路を建設、1936年には豊富な水量をもつコロラド川から水を供給し、この問題は解決された。
第二次世界大戦「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ(1942年)ロサンゼルス空港(1959年)

アメリカが1941年12月より参戦した第二次世界大戦中は、日本軍の上陸や空襲に備えて対空砲や防空レーダー、防空シェルターの整備、灯火管制が行われたほかに、小中学生に対して学童疎開も検討された。さらには、大日本帝国陸軍の上陸や大日本帝国海軍機による空襲を恐れるあまり、また人種差別的観点から日系人の強制収容が行われたものの、大戦期を通じてロサンゼルス市内への日本軍の上陸や空襲、艦砲射撃を受けることはなかった。

しかし開戦翌年の1942年にかけては、沿岸部において日本海軍潜水艦通商破壊戦を含む活発な活動を行い、多くの艦艇が攻撃、撃沈されたほか、沿岸部では攻撃され沈みゆく船が市民から目撃された。さらに1942年2月24日には、近郊のサンタバーバラの製油施設が日本海軍艦艇の砲撃を受けたうえに、その翌日には、パニックに陥ったアメリカ軍による「ロサンゼルスの戦い」のような、市民に死傷者を出す悲劇も起き、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸のみならずアメリカ全土を恐怖に陥れた。


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