ロイヤル・オーク_(戦艦)
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二人の士官と少将との仲が回復不能になっているのを知ると、大将はマルタ島で査問会を開き、三人とも停職処分とする[11]。このため大規模な演習が延期されることになった。世界中のマスコミはこれをかぎつけて、誇張を含めて「反乱」と呼んだ。この状況を心配したイギリス国王ジョージ5世は、第一海軍卿であるブリッジマン提督を説明のため召し出したほどだった。

告発の手紙のために艦長らは反抗的文書を書いたとして罪を問われた。世間の注目を集めた軍法会議において二人は有罪とされ、重い懲戒を受けたため、ダニエルはすぐさま退役した。ドワー大佐は、練習艦として扱われていた巡洋戦艦「タイガー (HMS Tiger) 」艦長に任命され[注釈 6]、さらに戦艦「アイアン・デューク (HMS Iron Duke) 」艦長を拝命したのち、少将進級後に退役した。またコラード少将も、ブリッジマン海軍大臣から「些細な事に目くじらをたてる態度では、海軍の重要な職務につく資格がない」と判定された[27]。このように各方面から批判されたコラード少将は、退役せざるをえなかった。事件の結果、海軍当局は士官がその上官を告発する際の手順を再検討することになった。

このあとも地中海艦隊に所属していたが、近代化改装のためイギリスにもどった[28]。改装後、本国艦隊に所属した[29]。1939年1月、第2戦艦戦隊(ロイヤル・オーク、ロイヤル・サブリン)の司令官としてヘンリー・ブラグローブ少将が着任した。
第二次世界大戦
スカパ・フロー奇襲 

第二次世界大戦開戦後まもなく、エーリヒ・レーダー元帥指揮下のドイツ海軍 (Kriegsmarine) の軍令部 (Oberkommando der Marine) は、スカパ・フロー軍港の英本国艦隊を潜水艦による奇襲攻撃で撃滅する作戦プランの実行を決意した。この作戦の目的は「英本国艦隊に痛撃を与え、北海の封鎖を弱体化させ、勢力の弱いドイツ艦隊の大西洋での通商破壊活動を容易にすること」であった。

潜水艦部隊司令官カール・デーニッツ代将は、この任務のためにベルナー大尉に小型潜水艦での航路偵察情報を収集させた。また、かつてオークニ諸島の東西で入手したスカパ・フローとスコットランドの交通情報を加味して作戦を立案させた。第一次大戦でも同様の作戦が二度失敗していた。また襲撃後は湾からの脱出が難しく成ることが予想され生還の見込みが少なかった。そこで、デーニッツ代将は自ら適任と考えたU47の艦長であるギュンター・プリーン大尉に、「辞退してもなんら問題ない」との条件をつけて突入の意志を尋ねた。

プリーンは資料を検討し翌日志願した。攻撃の期日としては、大潮と新月が重なる10月13?14日の深夜が選ばれた。作戦は隠密裏に運ばれ先任(潜水艦の副長)にすら13日の早朝まで行く先は知らされなかった。しかし、作戦の全容を知った後の全艦の「士気は旺盛」[30] となりプリーンは自信を深めた。

デーニッツはプリーンに、スカパ・フローへの侵入に当たり「本島とBurray島の間にある小さな島Lamb Holm島の北のカーク水道から進入するように」と指示していた。プリーンは浮上航行で進んだが、最初浅くかつ沈船のあるスケリー水道に間違って侵入しかけて北東方向に反転した。沈船の間を何とか通り抜け、自動車のヘッドライトに照らされるなど苦労しつつ、プリーンは深夜12時27分に港内に侵入した。錨地にはほとんど停泊艦がいないようにみえた。10月11日のネーヴェ少尉らの空中偵察では、空母1、大型艦5、巡洋艦10が在泊している筈だったが、13日に出港してしまっていたのである。この時点で、軍令部とデーニッツの作戦「英本国艦隊撃滅」は失敗に終わった。

プリーンは敵を求めて艦を反転させた。艦橋の見張りが北方およそ4,000mに戦艦らしい艦影を見つけ、ロイヤル・オーク級戦艦であると判断した。その背後には半分以上隠れて別の艦影が少しのぞいていた。プリーンはこの影を巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) 」と判定したが[31][注釈 7]、実際は水上機母艦であった。U47は12時58分に磁気信管付きの電池式魚雷4本を発射した。しかし、1本は発射管から出ず、1本がロイヤル・オークの艦首に水柱をあげたのみであった。ロイヤル・オーク乗員は前部にある危険物庫で爆発が起きたと勘違いして弾火薬庫の点検を行った。実際は魚雷が碇の鎖にかすっただけであった。船体に異常が見つからず大多数の乗員は再び寝所に戻った。プリーンは反転しつつ艦尾の1本だけある発射管から攻撃したが、この魚雷も不発であった。プリーンは動揺しつつも湾内を15分間航行して、前部の発射管を再装填しながら再び射撃ポジションについた。漸く装填できた艦首の2本の魚雷だけを発射し、1時16分に艦体中央部艦底下で爆発した。

爆発した魚雷は、船の磁気に反応するタイプのもので、艦底の下で爆発する仕組みであった。そのため、魚雷の爆発と浅い海底から反射した衝撃波により、装薬の二倍近い威力を発揮した。装甲のない艦底を打ち破られたロイヤル・オークの艦内では次々と爆発が起きた。火薬庫の誘爆で砲塔のひとつは基部から吹き飛び遠方に落ちた。海水が艦内に奔入し艦はすぐに右舷に15度に傾き、更に舷窓から浸水したため傾斜は急速に増した。やがて、45度にまで傾くとしばらくそのままでいたが、やがて水面から姿を消した。時に1時29分であった。第2戦艦戦隊司令官のヘンリー・ブラグローブ少将を含め、最終的な犠牲者数は835名にのぼった。生存者は386名であった。救助作業に水上機母艦「ペガサス」(旧名アーク・ロイヤル)が協力し、戦艦の生存者を収容した。

ドイツに帰投したプリーン艦長は、ラジオ放送でスカパ・フロー奇襲作戦の状況を語った[33]。ドイツ側は、U47(プリーン艦長)が「ロイヤル・オークとレパルスを葬った」と報道する[注釈 7][注釈 8][注釈 9]。この作戦の成功でデーニッツは少将に昇進した[36]。プリーン大尉は騎士鉄十字章を授与され、U47乗組員も叙勲された[37][注釈 10]。ナチス・ドイツのヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣は、プリーンの戦果を「第一次大戦でドイツ艦隊が自沈した場所での報復に成功した」として、ドイツ国民の戦意高揚のために大いに利用した。ドイツ国民はこのニュースを喜び、プリーンらは国民的英雄となる[31][注釈 11]。帰港中にU47の乗員が艦長へのプレゼントとして潜水艦の司令塔に牡牛のイラストを描いたことから「スカパ・フローの牡牛(おうし)」とプリーンは呼ばれた。しかし世論の評価とは別に、軍令部やデーニッツらは「英艦隊に一撃で痛撃を与えるという本来の戦略目的の達成はできなかった」と結果を分析していた。

第二次世界大戦ではイギリスの戦艦・巡洋戦艦は5隻沈んだが、本艦がその最初となった[注釈 12]。また、第二次世界大戦において潜水艦に撃沈された3隻の戦艦の一つとなった[注釈 13]
その後

伝統に従って戦艦「ロイヤル・オーク」は今でも戦没者の墓標として軍港に沈んでいる。イギリス海軍は毎年沈没した日に、慰霊の意味をこめて沈没艦の艦尾の軍艦旗の交換を行っている。
創作作品への登場

『我らの戦う海軍
(英語版)(別題:Torpedoed!)』(1937年、ノーマン・ウォーカー監督)

イギリス海軍が撮影に協力した。本艦は、南アメリカ大陸の架空国家に所属する戦艦「El Mirante」として重用な役目を演じた。


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 報道や二次資料によっては[2]、ロイヤル・サブリン級戦艦と表記される[3]。「ロイヤル級」や[4]、「R級戦艦」とも呼称される[5][6]。ロイヤル・オーク級戦艦との表記もある[7]


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