レーニン
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病状が悪化する中、ソビエト連邦(ソ連)の形成には構想の段階から関与し、1922年12月にソ連が建国されると、その行政府の初代議長に選出された。一方で、この頃にはグルジア問題などを巡ってスターリンとの対立を深め、口述筆記させた文書の中で党書記長からスターリンを解任するよう求めた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたす状態に陥った。1924年1月21日、ゴールキの邸宅で意識不明の状態となり、そのまま死去した。遺体は防腐処理を施された上で、赤の広場に建てられた霊廟(レーニン廟)にて一般公開された。
出生から青年期まで
出自ウリヤノフ家の家族写真。下段右端がレーニン

レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフは元農奴の家系の出身であり、イリヤの父親の民族性は不明瞭なものの[注釈 2]、母親はカルムイク人ロシア人の血を半分ずつ引いていた[3]。イリヤは下層階級の出自であったが、カザン帝国大学で物理学と数学を学んだのち[注釈 3]ペンザの貴族学校で教職を得て、中流階級の身分を手にした[5]。1863年の半ば、イリヤはのちにレーニンの母となるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクと結婚した[6]。マリアは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた[7]。結婚後、イリヤは教育者として出世を続け、やがてシンビルスク地方の公立学校の視学官となり、帝国政府による近代化計画の一環として450校以上の学校設立を監督した。1882年1月には教育分野における功績が認められて聖ウラジーミル勲章(英語版)を授与され、世襲貴族の地位を得た[8][9]
生い立ち当時3歳のウラジーミル・ウリヤノフ(左)と妹のオルガ(右)(1874年)

1870年4月22日(ロシア暦の4月10日[1])、レーニンはロシア帝国のシンビルスクでウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして生まれ、生後6日で洗礼を受けた[10]。ウラジーミルは両親の3番目の子であり、上には姉のアンナ(1864年生)と兄のアレクサンドル(1866年生)が、下にはオルガ(1871年生)とドミトリー(1874年生)、マリア(1878年生)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉と弟がいた[11]。父のイリヤがロシア正教会の敬虔な信者であった一方で、母のマリアはルーテル教会の信徒として育てられたもののキリスト教的信仰にはほとんど関心がなく、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた[12]。両親はともに君主制主義者かつ自由保守主義者であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世が実施した農奴解放令も熱心に支持しており[13]、子供たちをロシア人として育てた[14]。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない[13]。ウラジーミルは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時の彼は極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった[15]。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方、スポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェスを遊んで過ごした[16]
青年時代1887年のウラジーミル・ウリヤノフ

1886年1月、父のイリヤが脳内出血によって死亡した[17]。父の死後、レーニンの振る舞いは突飛で攻撃的になり、神への信仰も放棄した[18]。その頃、兄のアレクサンドルはサンクトペテルブルク大学絶対君主制に反対する政治的活動に取り組んでいた。彼はその後、ロシア皇帝であるアレクサンドル3世の暗殺を目論む革命的結社に加わり、暗殺用爆弾の製造役に選ばれた。しかし暗殺計画は決行される前に露呈し、アレクサンドルら計画者は逮捕されたのち裁判で死刑を宣告され、1887年5月に絞首刑に処された[19]。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、引き続き学業に励んだレーニンは古典中高等学校を首席で卒業し、その際には突出した成績を称えて金メダルを授与された[20]1887年8月、父の母校であるカザン大学に入学して法学を専攻したが[21]、12月には学生運動の集会に参加したことから警察に拘束されて大学から退学処分を受け[22]、帝国内務省によってコクシキノ村のウリヤノフ家の所有地に追放された[23]

コクシキノ村での追放期間中、レーニンは書物を読み漁り、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが1863年に著した革命小説『何をなすべきか?(ロシア語版、英語版)』に熱中した[24]。母マリアはウラジーミルの思想の先鋭化に懸念を抱き、内務省にかけあって息子をカザン市内に帰還させる許可を得た[25]。カザンに戻ったウラジーミルはニコライ・フェドセーエフ(英語版)の主催する革命サークルに参加し、そこでカール・マルクス1867年に著した『資本論』と出会い、マルクス主義への興味を抱いた[26]

1889年5月、一家でシンビルスクからサマーラ県の農場に移住したもののうまくいかず、9月にはサマーラ市内へと転居した[27]。サマーラ市内でレーニンはアレクセイ・スクリアレンコ(英語版)による社会主義議論サークルに参加し[28]、その影響下でマルクス主義の本格的な信奉者となり、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが1848年に発表した『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けた[29]


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