レーニン
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サマーラ市内でレーニンはアレクセイ・スクリアレンコ(英語版)による社会主義議論サークルに参加し[28]、その影響下でマルクス主義の本格的な信奉者となり、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが1848年に発表した『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けた[29]

1890年5月、母のマリアによる当局との交渉の末、レーニンは学外学生としてサンクトペテルブルク大学法学部の卒業検定試験を受けることを許可された[30][31]。1891年、レーニンは試験を受けるため春と秋の2度サンクトペテルブルクを訪れ、すべての試験に合格したが[32]、2度の試験の合間である5月には妹のオルガが腸チフスで病死した[33][30]。1892年1月、レーニンはサンクトペテルブルク教育管区局から第一級学位を授与され[32]、同月からサマーラの弁護士事務所に弁護士補として一年半ほど勤めたが、1893年8月にはその職を辞してサンクトペテルブルクに移住した[34]

1891年から92年にかけて、レーニンが当時住んでいたロシアのヴォルガ川流域で飢饉が発生し、知識人を含む多くの人々が救済活動をはじめたが、レーニンは飢饉が大衆を急進化させるのに役立つとの見解を持っており、それらの知識人による救済活動を「甘ったるい感傷行為」として否定した[35][36]
革命家として
初期の活動1895年のレーニン

サンクトペテルブルクに移ったレーニンは、弁護士助手として働く傍らマルクス主義革命結社 「社会民主党」に参加し(結社名はドイツ社会民主党に由来)、やがて党の幹部に昇格した[37]。この頃には、同じマルクス主義者の学校教師ナデジダ・クルプスカヤとの交際を始めた[38]。レーニンは自らが所属する社会民主党と、スイスのロシア人亡命者によるマルクス主義組織「労働解放団」との間に関係を確立することを望み、労働解放団メンバーのゲオルギー・プレハーノフパーヴェル・アクセリロードに会うためスイスを訪問した[39]

帰国後はロシア各地を巡り、国外から大量に持ち帰った非合法な革命的出版物を当地のストライキ労働者に配った[40]1895年秋、レーニンはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「労働者階級解放闘争同盟(英語版)」を結成した[21]。その後、闘争同盟の非合法機関紙『ラボーチェエ・デーロ』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた[41]。逮捕されたレーニンは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった[42]

1897年2月、レーニンは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した[43]。レーニンは政府に対する大きな脅威ではないとみなされており、流刑地のシュシェンスコエ(英語版)村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くのエニセイ川で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた[44]ウラジーミル・ウリヤノフ(中央)と他の労働者階級解放闘争同盟(英語版)のメンバー(1897年撮影)

1898年5月、レーニンは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初ウファでの流刑に処されていたが、自分とレーニンが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた[45]。その後、1898年7月10日にレーニンとクルプスカヤは結婚した[45]。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張するエドゥアルト・ベルンシュタイン修正主義者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもレーニンは暴力革命を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した[46]。1899年には『ロシアにおける資本主義の発展(英語版)』を著し、 農業社会主義(英語版)を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった[47]
ロシア社会民主労働党の分裂

1900年1月に刑期が終了し、プスコフにしばらくとどまったのち7月にスイスへ亡命した[48]。1900年9月、バイエルン王国の首都ミュンヘンに移住し、同年12月には流刑中に結成されていたロシア社会民主労働党[注釈 4]の機関紙『イスクラ』を創刊した。編集局のメンバーは彼の他にユーリー・マルトフ、ポトレソフ、プレハーノフアクセリロードザスーリチであった。この新聞を中心とするグループは「イスクラ派」と呼ばれた。ヨーロッパの著名なマルクス主義者が寄稿した『イスクラ』はロシア帝国内へと密輸されたが[49]、そのような地下流通網の構築はオシップ・ピアトニツキーに任せられていた[50]

ウラジーミル・ウリヤノフが初めて「レーニン」の筆名を使用したのは1901年12月であり[51]、翌1902年にはこの筆名で『なにをなすべきか?』と題するパンフレットを出版し、前衛党がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた[52]。レーニンはカール・カウツキーの言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版は大きな反響を呼び、以降の彼は「レーニン」の名でロシア帝国のマルクス主義者に広く知られるようになった[53]


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