15世紀末から16世紀初頭にかけてのイタリアのヴェネツィアにおいて、ドローンワークやカットワークから、レティセラやニードルレースが考案された。一方、ヴェネツィアやフランドルにおいて、飾り紐やブレードからパスマン(ブレードを組んで作ったレース)やボビンレースが発展した[3][4][5]。
当時、イタリア製のレースは国外でも注目され、イタリアで流行したレースはヴェネツィアの商人によって、ヴェネツィアンレースとしてイギリス、フランス、スペイン、ドイツなどへ持ち込まれていた[3][5]。イギリス国王エリザベス1世はのレースの衿を好んで用いた[3][4]。
フランスでは、1533年、アンリ2世と結婚したフィレンツェのカトリーヌ・ド・メディシスによってイタリアのレースが紹介され、さらに姪のマリー・ド・メディシスがアンリ4世と結婚し、レースの需要が高まった[3][5]。レースの購入費が海外へ流出するのを防ぐため、王侯・貴族以外は使用を禁止された[3][4][5]。そのため、フランスでは17世紀中期、ルイ14世の宰相ジャン=バティスト・コルベール公爵の重商主義の一環として、国営の製造所でポワン・ド・フランスが作られた[3][4]。しかし、良質の麻が取れたとの理由でまもなくベルギーにレース作りの拠点が移った。そして、生産性向上の欲求のため、18世紀にフランドル地現ベルギー)でボビンレースが発展した[3][4]。
1707年に書かれた詩により、イングランドのメアリー2世がタティングレースの愛好家であったことが推測されている。タティングレースは18世紀以降、ヨーロッパの宮廷で身分ある女性のたしなみとして発展していった[9]。
1789年のフランス革命以前より、フランスのレースは生産されなくなっていった[3]。