火山と多雨(気象の項を参照)が形成する独特の自然美は2010年に「レユニオン島の尖峰群、圏谷群および絶壁群」の名で世界遺産に登録されている。とくにピトン・デ・ネージュに刻まれた3つの圏谷(マファト、サラジー、シラオス)に展開する先鋒群や断崖と削り残された高原との対比、多雨による独特の植生と断崖を流れ落ちる多数の滝が世界自然遺産にふさわしい特異な景観を作り出している[3][4]。ピトン・デ・ネージュ山
気象「サン=ドニ (レユニオン)#気候」も参照
絶海の孤島にして高峰という地勢は、時として過酷な集中豪雨をもたらす。
内陸のシラオスでは、1952年3月15日から16日にかけて、24時間あたりの雨量1,870mm(世界記録)を観測している。また、1964年2月28日から翌29日にかけてベルーヴ (fr:Foret de Belouve) で観測された豪雨は、9時間あたり(1,087mm)・12時間(1,340mm)あたり雨量の世界記録となっている。( → 詳細は「降水量」の項を参照。)
政治詳細は「レユニオンの政治(英語版)」を参照
フランス内地の県と同様に県会の議長が行政府の長となる。
地方行政区分詳細は「レユニオンのコミューンの一覧」を参照
サン=ドニ
サン=ポール
サン=ピエール
サン=タンドレ
サン=ブノワ
サン=ルイ
サン=ジョセフ
サン=フィリップ
経済詳細は「レユニオンの経済(英語版)」を参照
主要作物はサトウキビで砂糖が主要輸出品、他にはラム酒、キャッサバ、バニラなどである。近年になって1940年代に失われたと言われていたコーヒーのブルボン・ポワンテュ種の野生化した苗木が発見され、フランス政府とレユニオン県庁の協力の下に2006年再生に成功、翌年以降、少数が栽培されている。アラビカ種由来で、他のコーヒー豆に比べて細くて小さく、硬いのが特徴。( → 詳細は「川島良彰」項を参照。)
フランス本土はじめ観光産業にも力が入れられている。高低差や変化に富んだ地形を利用したトレイルランニングの大会「グラン・レイド」(10月)には世界各地から例年6000人程度が参加し、希望者を断るほどの人気がある[5]。
一人当たりGDPは約26,000ドル(2013年)と高いが失業率は30%・若者の60%(2014年)、貧困層が人口の42%(2010年)という問題を抱える。 レユニオンでは黒人と白人の混血に限らず様々な民族の混血を「クレオル」と呼んでいる。人口の上ではこのクレオルが多数派で64%を占め、次いで印僑が28%、その他が少数派のヨーロッパ人や華人などとなっている。経済的には豊かな印僑や欧州人と貧しいクレオルとが対立する構図となっており、その経済格差は1991年に深刻な暴動を発生させる要因の一つとなった。 公用語はフランス語だが、一般的にはフランス語を母体としたレユニオン・クレオール語を話す。 宗教はカトリックが大多数の89%を占める。その他はインドより伝来のイスラム教(ほとんどがグジャラート州からの移民)やヒンドゥー教などとなっている。 表玄関はローラン・ギャロス空港(旧名サン=ドゥニ・ジロ空港)。ローラン・ギャロスはレユニオン出身の飛行家で、テニスの国際大会である全仏オープンが開催される会場にも彼の名が冠されていることで知られる。マダガスカルとバンコク間を飛ぶマダガスカル航空便はここを経由する。2011年4月からはエール・オーストラルがレユニオンとバンコク間の直行便を週2便就航させている。「レユニオンの空港の一覧」も参照 2009年に全長70キロメートルのトラム式軽鉄道トラム=トレン・ド・ラ・レユニオンの建設計画が発表され[6]、2014年完成が予定されていたが、2010年3月の選挙において推進派だったポール・ヴェルジェス(レユニオン共産党)が敗北したため一旦中止されている。住民の多くはトラム計画を支持していたが、ヴェルジェス家が子女を要職に就かせて政治的支配を固めていたことに反発して逆風が吹いたと言われている。 遅くとも12世紀にはアラブ商人によって島の存在が知られていた。アジアやアフリカの船乗りも立ち寄ったと推測される。
人口統計詳細は「レユニオンの人口統計(英語版)」を参照
民族
言語
宗教
交通ローラン・ギャロス空港詳細は「レユニオンの交通
歴史
1507年 ポルトガル人がこの無人島を発見。
1640年 フランス人が上陸してフランス領と宣言。
1642年 国王ルイ13世によってブルボン島(Ile Bourbon)と命名されたが、ブルボン王政を打倒したフランス革命によってレユニオン島(La Reunion)と改名された。
1665年 フランス東インド会社はインドへの中継港として重視し、植民を開始。最初はコーヒー栽培、そしてサトウキビ栽培による製糖が重要産業となる。
1806年 皇帝ナポレオンに媚を売った提督によってボナパルト島(Ile Bonaparte)と改称されるが、ナポレオン戦争終了後のイギリス占領時(1814年)にブルボン島に戻される。しかし1848年に2月革命で7月王政が倒れるとまたレユニオン島に改称されて今日に至る。
1869年 スエズ運河が開通すると、インド方面への中継港としての役割は減少。
1946年 フランスの海外県となる。
1952年 3月15日から3月16日にかけて、世界最多24時間降水量の1,870ミリメートルを記録。
2002年 ユーロ流通。
2003年 海外レジオン設置に伴い、「レユニオン海外県ならびに海外レジオン」になる。
経済年表
1502年 ポルトラーノ
1507年 ポルトガルのトリスタン・ダ・クーニャが接岸し、Santa-Appoloniaと命名。これは発見された2月9日が聖アポローニアの記念日であったため。
1513年 ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが公式に発見。彼の名はマスカレン(仏語ではマスカレーニュ)諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)に残っている。その後、オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師などが相次いで接岸。
1638年 インドに向かっていたSaint-Alexis号がルイ13世の名において占有を宣言。
1640年 Saint-Alexis号艦長が「公式」に領有を宣言(Bourbonと命名)。
1646年 マダガスカルの反乱分子12人が流刑。
1654年 マダガスカルの反乱分子(フランス人8人、マダガスカル人6人)が流刑。
1663年 フランス人2人が10人のマダガスカル人(男7人、女3人)と2年滞在。
1665年 フランス人20人が入植。
1668年 サトウキビがマダガスカルよりもたらされる。
1671年 人口76人:白人36人、マダガスカル人37人、混血の子供3人。
1674年 人口130人:奴隷75人。
1686年 最初の人口調査。総人口約300人:フランス人、ポルトガル系インド人、アフリカ、マダガスカル、オランダ10家族がフランス人夫婦より、12家族がフランス男性とインドーポルトガル女性、14家族がフランス男性とマダガスカル女性から。
1689年 奴隷人口102人、自由民212人。
1700年 人口700人、うち320人が黒人。
1709年 奴隷人口384人、自由民492人。
1711年 自生のコーヒーが発見される。
1714年 奴隷人口534人、自由民623人。