レフ・ヴァウェンサ
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1964年から1966年まで2年間の兵役を務め伍長の階級で退役し、1967年6月2日にはグダニスクレーニン造船所に転職する[11] [16][18]。ヴァウェンサは後に、国営農業機械センターと造船所を比較し、国営農業機械センターは、働きやすい労働環境であったが、造船所は、労働者は巨大な歯車の一つに過ぎず絶えず緊張感が張り詰めていたと述懐している[19]
政治経歴

1960年代後半頃より、ポーランド国内の経済状態は、経済政策の失策や、農業生産の不振などもあり、危機的な状況にあった[20][21]。そして、1970年12月12日土曜日、政府当局は、食肉の値上げを発表する[20][22]。土曜日に発表した理由は、ストライキが即座に発生しないように企図していた[20]。値上げ率は品目により様々であるが、4 %から92 %の値上げが行われ、そして、12月14日、グダニスクのレーニン造船所でストライキが発生する[20][22]。ヴァウェンサはストライキ時には、ストライキ運動を行う行進の先頭に立ち[23]、官製労働組合の委員を務めていた[24] [24]。ヴァウェンサはポーランド統一労働者党第一書記のエドヴァルト・ギェレクとの会合の参加者の一人となったが、会合で、発言をしようとするも遮られるなどされたため発言記録は見られない[25]。しかし、会合が功を奏し、1971年1月8日、政府は今後2年間の価格値上げを凍結することを約束する[26]

ギェレクは、その後、経済成長と生活水準の向上を国民に約束し、1971年から1975年までの5か年計画を採択し、西側の技術を取り入れるなど開放経済政策をとる[27] [28] [29]。一時的には効果が出たものの、石油ショックや西側からの莫大な借入債務によって、間もなく破綻し、1976年6月24日には再度食料品の値上げが発表される[29] [26]。食料品値上げの発表を受けて、バルト海沿岸、ワルシャワでストライキが開始される[29]。前後するが、ヴァウェンサは1976年の労働組合選挙の際に、官製労組への批判を展開する[29] [30][30]。ヴァウェンサはこれが原因で、1976年3月、造船所を解雇される[31]。造船所解雇後は、会社を転々とし、一方で公安警察からマークされながらも政府批判のビラを企業に配りまわるなどしていた[32][33][34][35][31][36]

1980年7月1日、政府は突如食肉価格の大幅値上げを発表する。その改定率は、40 %から60 %とも言われている[37]。翌日より、ストライキが開始され、ポーランド全国へと波及する[38][37]。ギェレクは、値上げを部分撤回し、労働者の賃上げを認め、ストライキ参加者の身分保障を確約し、ストライキ運動はいったん沈静化するものの、8月14日、グダニスクのレーニン造船所で1万6000人がストライキを起こす[39]。ヴァウェンサは、ストライキの指揮を執り、ヴァウェンサを委員長とするストライキ委員会は、グダニスク県委員会及び工場当局と交渉を進め、8月16日、要求が受け入れられたため、ストを解除する[39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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