レフ・ヴァウェンサ
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このとき、ヴァウェンサは独断でスト解除をしたとして、労働者から批判され、結局ストを継続した[40]。ヴァウェンサは、政府に対して21か条の要求の締結を迫った[41][42]。21か条の要求の内容は、言論の自由や政府から完全に独立した自治労働組合の設立認可などであった[43]。1980年8月31日には、ヴァウェンサとヤギェルスキ第一副首相が合意文書に調印し、21か条の要求が受け入れられる[44][41] [45]

1980年9月17日、グダニスクでの全国代表団の集会において、独立自主労働組合「連帯」の創設が決定される[44]。組合は職場に設けられ、それぞれの地域で、全国調停委員会(KKP)が選出される[44]。この委員会の議長はヴァウェンサが選出された[44]。「連帯」は1981年には、会員数は1000万人を数えるようになっていた[42]。ヴァウェンサは1980年10月から、諸外国を歴訪する[46]。1981年5月には、初来日し、総評と会議の場を持ち、日本の各政党の党首とも面談の機会を持ち、長崎市も訪問した[47] [48]

1981年3月、ビドゴシチで、県国民評議会の会場で、「連帯」の代表団と政府当局との間に衝突が起き、「連帯」側は、ゼネストを行なうことを宣言し、政府を脅迫する[49]。ヴァウェンサはゼネスト決行には反対であり、もしゼネストを決行した場合、全国調停委員会の議長を辞任すると、「連帯」をけん制した[49]。ゼネスト決行予定の前日に、ヴァウェンサはラコフスキ副首相と対談し、ビドゴシチでの衝突事件の解明と犯人の追及を約束することに成功する[49]。これによって、ゼネストの決行は回避されたが、ヴァウェンサのこの行動は、全国調停委員会内部では、越権行為として受け止められ、反対派からの攻撃に遭った[49]。ヴァウェンサは、1981年8月にも、政府代表と会談している[50]。この時は経済問題を中心に議論したが、議論はまとまらず、会談は決裂した[50]。同年9月から10月にかけて開催された「連帯」第一回全国大会では、ヴァウェンサは「連帯」内部の急進派から、卑怯者や、臆病者として非難されたが、「連帯」議長選出選挙では、55 %の票を獲得し、「連帯」の議長に選出される[50][51]

ヴァウェンサは共産主義国における反体制派の指導者として評価されていたが、ヴァウェンサ自身は、政府との妥協を訴えるなどし、「連帯」内部の急進派とは折りが合わなかった[52]。ヴァウェンサが急進派と合わない原因としては、一例としては、ポーランドの莫大な対外債務があるにもかかわらず、賃金の引き上げを訴えるなどしていたことが挙げられる[53]。1981年10月18日、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキがポーランド統一労働者党の第一書記に就任する[54]。ヤルゼルスキはポーランド国内の危機的状況を打破するために、政府、政党、軍隊を一手に握った[54]。11月4日、ヤルゼルスキ、グレンプ枢機卿、ヴァウェンサの三者会談が行われたが、ヤルゼルスキは当初より「連帯」を潰す腹積もりであり、緊急事態法を導入し、ストライキや集会の禁止を行なうと脅し、会談は物別れに終わった[54][53]。このころポーランド国境では、ポーランドの不穏な状況を見たソ連が軍を国境沿いに派遣させており、ソ連による侵略が間近に迫っていた[54][55][56]。1981年12月13日、ヤルゼルスキは、ソ連の軍事介入を防ぐために、戒厳令を発令する[57][55][54][56][58]


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