代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。
生涯20歳の時に撮影された写真(1848年)
トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナ[map]で、伯爵家の四男として生まれる。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、1830年、2歳のとき母親を亡くす[1]。1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都であるモスクワ[map] へと転居するが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザン[map]に住む叔母に引き取られ、1841年にはカザンへと転居した[2]。1844年にカザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、1847年にカザン大学を中退した[3]。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。
1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、すぐに挫折した[4]。その後、ヤースナヤ・ポリャーナで暮らしたりモスクワとペテルブルク[map]で放蕩生活を送るが、この時期は様々な事柄に手を出しているもののすべてものにならなかった。その中で、1850年にはじめて小説の執筆を始めている[5]。1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。この時の体験は後年『コサック(英語版)』や『ハジ・ムラート(英語版)』や『コーカサスの虜 (レフ・トルストイ)(ロシア語版)』などに反映された。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代(英語版)』がネクラーソフの編集する雑誌『同時代人』に発表され、新進作家として注目を集める。1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリ[map]で激戦の中に身をおく。セヴァストポリ包囲戦での体験は『セヴァストポリ物語(英語版)』(1855)などに結実し、のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。
退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった[6]。ヴァイマル[map]を訪れた際の逸話がトーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(独: Goethe und Tolstoi, 1923年)に記されている。パリ[map]滞在中には公開処刑を目撃し、衝撃を受けている[6]。帰国後、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった[7]。1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった[8]。
翌1860年から1861年に、教育問題解決のため再び西欧に旅立った。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。他にもディケンズやツルゲーネフを訪問した。1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する[9]。