作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[25]。1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判し、特に日本による大韓帝国の保護国化を「日本の政治家は朝鮮を併呑しようと躍起になり、根拠のないことをする狂人だ」と非難した(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記』)。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[26]。その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[27]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、家出3日後に小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ロシア語版))[map]で下車した[28]。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された[23]。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。
家族孫娘とともに詳細は「トルストイ家(英語版)」を参照
妻ソフィア・トルスタヤ(英語版)は悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある[注釈 4]。デール・カーネギーは「人を動かす」において、トルストイが臨終の直前妻を近づけるなと遺言したこと、また死の床でソフィアが「お父さんが死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。しかし、フェミニスト達は、両者の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかった一方(上述のとおり、晩年のトルストイは印税や地代の受け取りを拒否しようとしたほか、著作権その他の遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていた)、ソフィアが十数人の子どもたちを養い、生活を守るために現実的に生きざるを得なかったためと主張している。映画「終着駅 トルストイ最後の旅」では、トルストイを深く愛しながらも、彼と対立していくソフィアの報われない愛が描かれている。
三男イリヤ・トルストイ(英語版)は、1914年に発表した"英: Reminiscences of Tolstoy"(後に加筆された。『父トルストイの思い出』-英: Tolstoy, My Father; Reminiscences)で作家として一躍脚光を浴びた。1917年にアメリカ合衆国へ亡命。
四女アレクサンドラ・トルスタヤ(英語版)は、1929年に日本へ出国し、18ヶ月過ごした後[29]1931年にアメリカ合衆国へ亡命。著書『お伽の国‐日本―海を渡ったトルストイの娘』で日本での二年間の滞在記を記している。
玄孫のウラジーミル・トルストイは、ウラジーミル・プーチンの大統領顧問になった[30]。