レフ・トルストイ
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1891年から1892年にかけてのロシア飢饉(英語版)では、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが[19]、政府側はトルストイを危険人物視し[20]、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった[21]。『神の国は汝らのうちにあり』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。『芸術とは何か(英語版)』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定した。

その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。またこの作品の著作権料によって試みは成功し、カナダへとドゥホボル教徒は移住した[22]。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年破門の宣告を受けたが[23]、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない[24]。一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。

作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[25]1904年日露戦争1905年第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判し、特に日本による大韓帝国の保護国化を「日本の政治家は朝鮮を併呑しようと躍起になり、根拠のないことをする狂人だ」と非難した(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記』)。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[26]。その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[27]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、家出3日後に小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ロシア語版))[map]で下車した[28]。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された[23]。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。
家族孫娘とともに詳細は「トルストイ家(英語版)」を参照

妻ソフィア・トルスタヤ(英語版)は悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペモーツァルトの妻コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある[注釈 4]デール・カーネギーは「人を動かす」において、トルストイが臨終の直前妻を近づけるなと遺言したこと、また死の床でソフィアが「お父さんが死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。しかし、フェミニスト達は、両者の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかった一方(上述のとおり、晩年のトルストイは印税や地代の受け取りを拒否しようとしたほか、著作権その他の遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていた)、ソフィアが十数人の子どもたちを養い、生活を守るために現実的に生きざるを得なかったためと主張している。映画「終着駅 トルストイ最後の旅」では、トルストイを深く愛しながらも、彼と対立していくソフィアの報われない愛が描かれている。

三男イリヤ・トルストイ(英語版)は、1914年に発表した": Reminiscences of Tolstoy"(後に加筆された。


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